シーシュポスの真の苦難について

2013/02/28 15:17


シーシュポスの神話は人生の寓意である。これに異論を唱える人は少ないであろう。ただ、その寓意が伝えようとしていることとは何だろう。人生はまったくの無益である。あるいは途方もない無駄である、というようなことを言おうとしているのだろうか。

ところで、わたしがシーシュポスの神話から連想するのはいつもパンドラの筐のことである。これの蓋をあけてしまったおかげで、この世にありとあらゆる悪が飛び出してしまった。その蓋を一旦は閉めたのはよかったが、最後まで筐の中に閉じ込められていた最大の悪にまんまと騙されてもう一度蓋を開けてしまった者がいたのだという。
その最大の悪というのはわたしたちが希望と名づけたもののことである。

話を飛躍させたのにはわけがある。もしもシーシュポスの苦難が苦難でなかったと仮定しよう。なぜなら、シーシュポスの神話が人生の寓意であるとするなら、わたしたちの人生は必ずしも苦難の連続ではないからである。

シーシュポスには一切の希望がなかった。ただ、希望がないかわりに絶望もなかった(希望と絶望は同じコインの裏表である。世の中はすべてこのように二つの相反するものが等量に配置されてバランスをとっている)と仮定する。シーシュポスは、ローランズのいう瞬間を生きる存在であった。つまり過去の記憶もなく、またなんら未来への渇望ももっていなかったと仮定するなら、彼はあたかも自分の力の限界に挑むウェイトリフティングの選手のようなものである。彼にあるのは今(フッサールのいうprime now)という瞬間だけである。その瞬間を彼はただ渾身の力を込めて生きる。余念は一切ない。とするなら、ローランズも言うように彼ほどに幸福な人間はいない、ということになる。

シーシュポスの苦難が苦難であるのは、彼がそれを懲罰と認識しているからである。この認識は、わたしが考えるに永遠という概念と無縁ではない。彼が真に一瞬のみを生きる存在であったなら、たとえ彼の労苦が永遠のものであったとしても、それはまったく苦難とはならなかったであろう。つまり、彼の真の苦難は、彼が自らの運命を知ってしまっているということにある、ということになる。

わたしたちが、自らの運命を予め知る能力のある存在だったとしよう。わたしには、これほど恐ろしい懲罰はないように思える。もちろん、わたしたちはシーシュポスのように永遠に同じことを繰り返すわけではない。わたしたちは生まれ、成人し、歳をとり、そして死んでゆく。その過程の中で新たな生命を生み出す。シーシュポスとの違いがあるとすれば、この新たな生命に懲罰を引き継ぐということだけである。

しかし、その一切が生まれたときから予め決まっており、しかもその運命のすべてをわたしたちがはっきりと認識しているとするなら、これほど恐ろしいことが他にあるだろうか。わたしたちは、それでも生きようという意欲を持てるだろうか。

いや、そもそも上の仮定が間違っている。わたしたちに未来を予知する能力がないのは、おそらくパンドラの筐の中にもう一つだけ真の悪が、真の悪だけあって、こやつは大胆不敵にも大鼾をかきながら居眠りしていたのである。
言うまでもない。その悪の名は予知である。

もしもわたしたちの生が神の懲罰であるとするなら、神は残酷にも最悪の悪である予知の能力だけは筐の中に閉じ込めたままわたしたちに与えなかったのだ。