不可知の知

2011/11/04 11:43


先日、アインシュタインの「世界に関して永遠に分からないことは、それを分かるということだ」という言葉に刺激を受けて、それから少し「世界」ということ、そして不可知ということについて考えてみた。

なぜ、アインシュタインの言葉から不可知へと連想が及んだか。それは、アインシュタインは「それが分かるということだ」と極めて断定的に世界の認識について言及しているが、果たしてそうだろうか、と疑問に思ったからである。

普通、わたしたちが理解できるのは理解できることだけのはずである。理解の前にはおそらく認識というものがあるだろうから、これを、わたしたちが認識できるものは認識できるものだけである、と言い換えても大した違いはない。

たとえば、誰かに「今まで見たことのないものを絵に描いてみよ」と命じたとする。・・・描けるはずがない。仮に、描いたとしても、それは今までに彼が見たものを単に合成した絵に過ぎないものになるであろう。

だから、アインシュタインの上の言葉には、どこかおかしいところがある。と、わたしは思うのである。

アインシュタインは、相対性理論を人類史上初めて確立した偉大な人物である。しかし、その一般相対性理論が世に出たとき、彼は重大な間違いを犯してしまった、と考えた。それは、宇宙項と呼ばれるものを虫垂のように付けてしまったからである。

なぜ、彼は虫垂を付けてしまったか。付けなければ、宇宙はどんどん膨張を続けてしまうからである。

このことより、アインシュタインという人が宇宙を静的なものとして考えていたことが分かる。つまり、宇宙の大きさは最初(があったとして)から最後(があったとして)まで、不変であると考えていたのである。

だから、宇宙の膨張が観測により決定的なものとなったとき、アインシュタインは、宇宙項を付けたのは一生の不覚であった、と嘆いたのである。

ところが、話は二転して、近頃では、いや、あの宇宙項は必要なものであった、ということが分かっている。なぜなら、宇宙には未知の、未だその全容の分からないダークマターと言われるような物質が相当量存在していることが明らかになってきたからである。

ここで、また話は飛躍するが、アインシュタインはまた、このようなことも言っている。これは、不確定性原理に対しての批判を述べたものである。

「神はサイコロ遊びをしない。自然は蓋然性などで糊塗されない確実な言葉で語られるべきである」

不確定性原理は、量子論の基礎的な考え方で、素粒子の運動量と位置(あるいはエネルギーと時間)というこの二つの量は、同時には決定できない、ということを記述するものである。このことは、現代では相対性理論古典物理学として確立しているのと同様に物理学上の発見として不動の地位を得ている。

ところが、アインシュタインは、どうしてもこの量子論が気に入らなかった。というよりも、彼ほどの天才にしても、量子論の本質を理解していなかった。だから神はサイコロ遊びをしない、と反論したのである。

不確定性原理というのは、わたしなどが考えても確率の話などではない。これは、量子と呼ばれるような極小の物質が本来的に持つ基本的な性質であって、サイコロ遊びで言うなら、一の目と六の目は同時には出ない、というくらい確かなものなのだ。

このことからもアインシュタインがこの宇宙を固定したもの、として捉えていたことが分かる。わたしが思うに、アインシュタインは運命論者であったのだ。つまり、原因と結果との間には厳密な関係があり、原因を精密に調べれば結果が分かる、というラプラスのような考え方の持ち主であったのではないか、と思うのである。

話を戻せば、アインシュタインが言うように、この世界は人間が、いや、たとえ何者であったとしても、必ず認識できるものであるとは限らない。何者であろうとも、この世界を仮に系と呼ぶなら、系の中にいる限りは系のすべてについて知ることも、また変えることもできない、とわたしは考えるのである。その意味では、わたしもまた運命論者である、ということになる。

さらに言えば、系の外のことなど不可知でありまさに論外のことである。それについて考えることは、見たことのないものの絵を描くにも等しい行為である、と思うのである。