ワンさんへ

2016/12/02 09:12


ワンさん、こんにちは。Kiyoppyです。

わたしには未満という言葉の意味がまだよく理解できていないようで、あいすみませんでした。なにしろ、20歳未満というのをわたしは、18歳と19歳のことだとばかり思っていましたから、はい、14,5のころから酒はよく嗜んでおりました。
また、タバコはやりませんが、タバコは二十歳になってから、というのにも何か憤りのようなものを感じております。二十歳を過ぎてからタバコを始めるバカ(いや、奇特な御仁)がいったいどこにいるのか、などと。

というような枕はさておき、クワス算についてのわたしの認識をあらためて披歴いたしますと、

これは、クリプキという天才の考えた冗談である。
天才の冗談はときとしてこのように凡人を惑わすことがある。
よって、わたしもこれからは冗談もほどほどにしなければならない。

というようなことを思っているわけであります。

駄菓子華氏、とは言うものの、クワス算というアイデア自体にはなかなか面白いところがあるようにも感じております。

たとえば、ゲーテはこのようなことを自問しています。
わたしがこの足を踏み下ろして、目の前の蟻を殺してしまえば未来は変わってしまうだろうか。
わたしはゲーテが本当に蟻を踏み潰したかどうかは知りませんが、これを蟻ではなく、亀、もしくは鶴に置き換えるととても興味深いことが分かるのではないかと考えています。

つまり、浦島太郎が亀を助けなかった、あるいは翁が鶴を助けなかったら、と想像するわけです。
ゲーテの蟻よりは、こちらの方がより分かりやすい。なぜなら、浦島が亀を助けなかったら浦島太郎のお伽話はそもそも存在しないでしょうし、鶴の恩返しにしても同じです。

何が言いたいか、ですか?

クワス算は可能性世界、あるいは多元世界に通じるSFと捉えることができるのです。
以前にも書きましたが、赤ん坊には無限の可能性がある、と考える人たちがいる。一方、わたしやワンさんのように? そんなバカなことがあるか、と考える者もいる。

クワス算にしてもアキレスと亀の話にしても、現実的にはあり得ない絵空事です。しかし、その論理には明らかな瑕疵が見当たりません。これは、わたしが何度も言っているように無限と零という現実世界には存在しない(観念)を扱っているからです。

アキレスが亀を追い越せないとするには、無限に微分が可能であるとしなければなりません。つまり、零の概念が挿入されてしまっているのです。
しかし、アキレスと亀を二つの質点とし、両者がピアノの鍵盤の上を走っていると考えれば、このようなインチキはすぐに破たんしてしまいます。亀がドの白鍵の上から次のレに移ろうとしているうちにアキレスはレを越えてミを叩いているかも知れないからです。

クリプキの方はもう少し込み入っています。というより、クリプキは自分が無限の概念を使って何を言おうとしているかを自覚しています。

少女Aに「あなたはこの計算をやるのは初めてなのでしょ」と問うのはなぜでしょう。

それは、本当は少女にとっては57から先にあるのは未経験の、未踏の広漠とした砂漠、あるいは白皚皚たる雪原であるはずだ、ということです。
そうであるにもかかわらず、なぜ少女は、あるいはわたしたちは、いとも簡単に答(らしきもの)を出してしまえるのか、という反問、これがクリプキの言わんとしていることであって、クワス算そのものは、その道具でしかありません。

ワンさんは、少女Aは足し算をやるときに何らチェックをしていない、ということを拠り所に少女Aはクワス算をやっていなかったとおっしゃっている。
しかし、クリプキに言わせれば、なぜ何らチェックもしないで足し算が出来るのか、となります。
これは逆に、クワス算でも同じことです。この場合は、ワンさんがクリプキの立場と入れ替わって、なぜチェックもしないのにそんな計算が出来るのか、となるだけのことです。

お分かりのように、答が5になるものだけがクワス算ではありません。6になるもの、7になるもの、100になるもの、そして125になるものもある。その125になるものをわたしたちはプラス算と言っているだけだ、というのがクリプキの主張なわけですから、これは無限の概念を導入したたとえ話というよりないでしょう。しかも、財務省の官僚であろうと天文学者であろうと、それがどれほど大きな数字であろうと、必ずあるはずですから手が込んでいます。

わたしは、概略上のようにクワス算を捉えて面白がっているわけですが、ワンさんは数学者、あるいは論理学者的な見方をされているらしい。
それではいつまでたっても話がかみ合わないわけです。