youtubeを見ていると、人間の本性が、ーー人間などと偉そうに言ってみても、所詮は獣だな、と分かるものが出てくる。
逆に、獣とか畜生とわたしたちは言うけれども、彼らの方がよほど高貴ではないか、と思わせてくれるものもある。
前者は、例えばこういうものである。
ホイールチェアーの女性が高級レストランに入ってくる。すると、店員の男もマネジャーらしき女も迷惑顔を顕に彼女に応対するのだ。
彼女は予約をしていて、予約帳にはちゃんと彼女の名前が書いてある。
ところが、ホイールチェアーが邪魔になるという理由で彼女は邪険にも一人離れた席に連れて行かれる。そこでは、ダンスを始めた男女の客にもホイールチェアーがダンスの邪魔になるとか言われて、予約をして同じ金を払った客としての扱いを受けないのである。
しかし、この後がお決まりの展開で、実はこの女性は、この店を所有するCEOだった。イソップとか水戸黄門のような話である。
しかし、これをイソップとして見てはいけない。
それよりも、こんな話を喜んで見ている自分自身をなんとかした方が良い。水戸黄門などどこが面白いのか。面白いのはゆみかおるの入浴シーンだけだろうに。
私たちには生まれ持っての公平感というものがある。犬にも猿にもある。
昔、子供のころに中小二匹犬を飼っていた。マリというメスのマルチーズとシバのかかった雑種で私がドンと名付けた。
私がわざとドンを抱き寄せて可愛がると、マリは嫉妬も露わに吠え立てた。
ドンも私の愛撫を迷惑そうに俯いてみせる。
このように、あからさまなえこ贔屓は、彼らにとってもはた迷惑なのだ。
だから、ホイールチェアーのCEOがスッと立ち上がって、いったいあんたたちの私に対する態度はなんなの、と逆襲が始まると、見ている方もグッと溜飲が下がってカタルシス、と相成り早漏とくる。ちなみに早漏は誤字ではない。そのくらいカタルシスとかエクスタシーを感じる人もいると思うからだ。
何が言いたいかお分かりであろう。わたしは、このような作意が嫌いなのだ。
もちろん、ホイールチェアーの女優が嫌いなわけではない。女優に演じさせている者たちの幼稚さ、単純さが嫌いなのだ。
とは言え、結構それを喜んで見ている自分がいて、そのアンビバレンツさ加減にも同じく嫌気がさしてくる。
しかし、これとは反対に、おそらくこれにも半分は視聴者を獲得するために虚偽や誇張が混じっているのであろうが、動物たちの誠実さというか、人間に命を救われた時の心からの感謝とか恩返しの行動を見せつけられると、ああ、やはり知恵の実を食わなかった彼らの方がわたしなどよりも高貴なのだ、と思ってしまう。
だいぶ昔に「ゴリラの涙」というのをものしたことがある。有名なココという名のメスのゴリラが可愛がっていた猫が死んでしまって、ココは涙を流すのである。
当時わたしは、これに感動を覚えたものだが、今はそんなことはない。
それどころか、その当時のわたしはゴリラを舐めていた、と思っている。まったくココに対して失礼であった。なぜなら、ゴリラの方が人間などよりも高貴であることは、今ではわたしの中で自明のこととなっているからである。ゴリラだけではない。狼も犬も猫も人間などよりもよほど高貴である。
彼らを獣と蔑むなかれ。畜生とも言うなかれ。
彼らは獲物を襲い、その肉を喰らう。それは我ら人間とて同じである。
人間の多くは、直接には牛も豚も殺さず、他人にそれをやらせて罪のない顔をしているだけである。
ちょうど今の時期。コロナのおかげで、その最も獣性の高い部分が隠れてしまって、人間は誰も彼も天使のごとくに見えるかもしれないが、マスクを外した顔をとくとご覧あれ。
天使が悪魔に変わる瞬間が見られるであろう。
人間は口がなければ天使なのである。