パワセクモラハライジメ

呪文のように唱えてみよ。

これらが同じ線上にあることに気づく。そして、その線の伸びる方向が異常であることにも気づくであろう。

異常なのはこれらを受ける方ではない。与える者たちである。

与える者たち、パワハラやセクハラやイジメをする者たちは今自分の乗っている軌道が正しいと信じている。だから、始末が悪いのだ。正しさというものは、いくらでも後から理由がつけられる。酷いものになると、あいつの顔を見ると気分が悪くなるから、などと被害者にとっては理不尽極まりない言い訳が彼らの中では正義となるのである。

そしてまた、被害者側にもまったく問題がないかというと、そんなものでもない。被害者HはHで、「そうか、私の顔はひとに不快感を与えてしまうのだ」などと、これもまた異常としか思えないような反応をしてしまったりする。

昔、七面鳥とそれとよくは似ているが別種の鳥との喧嘩について書いたことがある。たしかほろほろ鳥だったか。

何を書いたか?

喧嘩に負けた犬が、相手に腹を見せればそれ以上の攻撃は受けない。それが敗北のサインで「まいりました」の意味だからである。

ほろほろ鳥同士の喧嘩でもこれがあるらしい。ただし、ほろほろ鳥の場合は、腹を見せるのではなく地面に蹲るのである。しかし、見かけは同じ鳥ながら、七とホロでは習性がまったく違う。七は、ホロが蹲ったのを見ると図に乗って更に攻撃を加えるのである。するとホロは、お代官様ご勘弁をと更に平伏、蹲ってしまう。七は更に逆上、とうとうホロをいたぶり殺してしまうのである。

わたしは、この七とホロと同じことがKとHの間で起こっていると見る。

もちろん、鳥の場合はいざ知らず、人間の場合Kの行為は違法である。HはKに償いを要求できる。


わたしが思うのは、以上で述べたことは個人間、あるいは個鳥間の話であるが、人間社会では、これが多数対個人という構図になったり団体対個人や少数派という構図になりがちだということだ。

正義の旗を振り翳す集団が社会的に最も弱い個人に社会的集団リンチを加えていたりする。人間というものは、真の正義のなんたるかも分からないまま「正義」を錦の御旗に弱きを挫き強きを助ける行いをするものなのだ。

客観視すれば、人間としてわたしが最も卑劣と感じる、それは阿諛だろうという行為が、彼らの中では「正義」と思えてしまうらしいのだ。

イジメやパワハラモラハラ、セクハラなどに加わる者たちには大抵この心理が働いている。

 

正しい者たちよ。絶対に集団に与するな。自らの誇りを保て。そして弱き者を助けよ。