DNAと運命

2010/01/30 17:46

われながら、とてつもないテーマに挑んだものだ。
ただわたしは、運命というものについては生来的と言っても良いほど関心をもっている。しかしこれは、おそらくわたしだけではない、ほとんどの人が関心を持っていることであるに違いない。その理由は明らかである。人間はいずれ死ぬからである。

身近な者の死やペットの死に遭うと、誰しも命の儚さを思い知らされ愕然とする。それゆえ、人というのは誰もが生れつき哲学者なのである。

わたしはキリスト者ではないが、「神は自分の姿に似せてアダムを創られた」という言葉が好きである。
だが、現代に生きるわたしたちは、当然ながらこの話を額面どうりに受け取るわけにはいかない。わたしたちは、ダーウィンを知っているし、ワトソンとクリックが発見したDNAについても少なからず知っている。

しかし、この聖書の話をある種の寓話として解釈することはキリスト教に対する冒涜にはならないであろう。わたしは、聖書にしても日本の神話にしても時と多くの賢人たちの手によって切磋琢磨されていったものであると考えている。

だから、神が己の姿に似せて・・・という件を、わたしは「宇宙は、その内部構造を生き物にも当て嵌めた。したがって、宇宙は一種のマトリョーシカのような構造になっている」と解釈している。

話は変わるが、人間が自由でないことは、大人なら誰しもが知っている。経済的にも社会的にもまた個人的な願望においても人間はまったく自由ではない。ゲーテも「ちっとも自由でないのに自由であると思っている者は、すでに自由の奴隷になっている」と言った。

しかし、わたしの考える自由とは上に述べたような自由ではない。空を飛ぶ鳥を見て、自由でいいなぁと思う者は、真の自由を知らない者である。いったい鳥のどこが自由なのか。鳥たちにも社会的な序列があり、縄張りがあり、天敵がおり、季節が変われば渡りもしなければならない。ちっとも自由でなんかあるわけがない。

では、わたしの思う自由とは何か。それは、運命に抗うことができるということである。しかし、すこし敏感な人であれば、この言葉の持つ矛盾にすぐに気がつくであろう。
運命に抗うとは言うが、それ自体が間違いなくその人の運命であるに違いないからだ。

そして、運命に抗うというような果敢な性格も、あるいは逆にすべてを神の思し召しと従う柔和な性格も、結局はその人に組み込まれているDNA、つまりはプログラムによるものだということは既に科学が証明してくれている。

神は己の姿に似せて人間を創造された。この言葉は、実に深遠なる言葉である。わたしたちの中に神が存在し、また当然の如く神の中にわたしたちが存在する。

これをわたしの拙い言葉で翻訳するなら、
「宇宙は、自身の持つ構造と同じ仕組みを人間にも適用した。つまり宇宙自体にも自ずと定められたプログラムがあり、生き物にもそれと同じようにDNAという形のプログラムを与えた」となる。

わたしたちは、DNAによって行動や運命の大部分を規定されている。これは、いくら否定してもだめである。わたしたちの身体がDNAという設計図の通りに作られたものであるのと同様に、少なくともそのソフトのOS部分はDNAの意図するとおりに作られているはずだからだ。OSというのは、知能や性格や感性、その他の傾向など内的個性のことである。

こういう風に考えを進めていくと、どうしても人間という生き物の持つ不条理に突き当たってしまう。人間は、自らが宿命づけられた生き物であることを知っている。自分自身がいずれ死ぬことを知っており、この世には何一つ変らぬものがないことも知っている。

これは、科学などという言葉がなかった時代から普通の人が普通に感じていたことである。ただ科学は、これを裏づけ補強するように、残酷にもわたしたちに真の自由は・・・、逃げ場はないよと告げているのである。