DNAと精神

2013/07/19 19:56


出勤時に蜘蛛の巣が朝日を浴びてきらきら光っているのを見た。漁師さんが船出する前に網を手入れしている姿を想像し、おかしくなった。おまえさんも大漁だといいね、と声をかけた。

上からいろんな妄想が浮かんだ。本を読む以外には何の楽しみもない監獄のような電車の中である。頭の中で好きなことを考えることだけは誰にもとがめだてを受けるはずもない完全なる自由である。

その自由の結果、次のような着想を得るに至った。

蜘蛛という生き物は、あの複雑な幾何学模様の巣というか網を作ることにかけては天才を持っている。実に巧みにしかもスピーディにあれを作ってしまう。
また、蜂にしても同じようなものだ。あのビーハイブといったり、あるいはハニカムなどとも言ったりする建築物は非常に堅牢でもあるし、また機能的でもある。今ではカプセルと称して、あちこちのサウナにあれそっくりのものが二段積みに設置されていたりする。

考えたことというのはこうだ。
蜘蛛にしても蜂にしても、自分の身体の外にああいうものを作っているわけだが、そうすると、彼らのDNAにはああいうものを作るためのコードが仕組まれているということになる。

昔、ミシンにいろいろな模様縫いの機能が付いたときに驚いた記憶がある。そのころはまだICもLSIもない時代だったから、模様縫いのために用いられたのは様々な形をしたカムだった。つまり、そのミシンというのは、まったく電子的というのではなく機械的に模様を縫う仕組みだったわけである。

ところが、蜘蛛にしても蜂にしてもあの小さな身体に、あのころのミシンどころではない複雑なカムが仕込まれているということになりはしないか。
また、蟻を見てみればよい。彼らもまた実に複雑なことをいとも容易くやってのけている。地中深くトンネルを掘り、いろいろな役目を持つ部屋を作り、また様々なコミュニケーションを行っている。

これらのことから、ある連想が浮かんだとき、わたしはDNAというもののたくらみの恐ろしさに、なんら誇張ではない、戦慄を覚えてしまったのである。

DNAは、わたしたちの肉体だけではない、精神をも支配している!
これは疑うべくもない事実である。蜘蛛が巣を作ることを精神と呼ぶのはおかしいだろうか。もしもおかしいなら、ソフトと言ってもよい。
 
極論するなら、人間が今のような社会、--具体的には金があらゆる価値の基準となってしまったような社会、あるいは衆愚が政治を動かすような社会、さらには核を開発しそれを使用するような社会、そしてDNAそのものさえ操作してまったく新しい種を創造してしまうような社会、そんな社会を人間に作らせたのもまた、間違いなくDNAに仕込まれていたコードによるものなのである。

妄想がここにまでたどりついたとき、決して電車の中のエアコンが効きすぎていたせいではない、わたしは背筋が寒くなるのを覚えたのである。

いったいDNAは、わたしたち生命をどこに運ぼうとしているのだろうか!