馬鹿と阿呆についての考察3

2014/11/16 12:51


週刊文春に摘菜収(てきなおさむ)という若き哲学者のコラム欄がある。その名もずばり「今週のバカ」。
で、今週バカの筆頭を飾ったのが、故本島等長崎市長

死者に鞭打つがごとく、摘菜氏の舌鋒は鋭くきつい。
しかしわたしも、宮沢経産大臣と同じで佐渡にもレスボス島にも興味はない。いや、サドにもマゾにもであったか。とにかく、この故人に鞭打つことになんら異論はないのである。

そんなことはどうでもよいし、これから書くことも本当はどうでもよいのだが、

この本島という元市長、バカというより本当に頭が変である。
以下は、摘菜氏も書いていたことであるが、その発言をwikiから引用してみた。

[質問]米国の原爆投下をどう考えるか。

[本島]『落とされるべきだった。(満洲事変から)15年間にわたるあまりに非人間的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった』

[質問]原爆の持つ非人間性は。

[本島]『原爆による死には『極限の残虐』という言葉が使われるが、拷問で死ぬ前の隠れキリシタンの恐怖は、いかばかりだったか。南京大虐殺731部隊も残虐の極致だ。日本人の非人間性、野蛮が出ている』

[質問]現在の核兵器をどうとらえるか。

[本島]『今、核兵器では何千万という人々が死ぬ。おもちゃのような原爆は、当時の考え方からすれば通常武器の一種だったと考えざるを得ず、核兵器廃絶を考える基礎になるものでない。被害の大きさが違い比較にならない』

[質問]今の認識に至ったのはなぜか

[本島]『日本人の持つ原爆観が世界に通用しないことを痛感するようになった。原爆は中国など侵略を受けた国々にとって救世主だった。市長を16年間続けている間、被爆者問題について考え続けたが、日本人の野蛮は計り知れない。日本人全員が謝罪する義務を負っている』

[質問]被爆者団体の反発が予想されるが。

[本島]『撃たれた時もそうだったが、この発言を緩めるつもりはない。間違っていると思った時に声を上げるのが、われわれの任務だ。今年いっぱいかけて、これらの考えを論文にまとめたい』
(以上、共同通信社のインタビュー配信記事 1998年7月29日)

[質問]米国による広島、長崎への原爆投下についてどう考えているか。

[本島]『米国やアジア太平洋諸国は原爆投下を『正しかった』『天罰だ』『救世主だった』と思っている。確かに、日本がアジア・太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲沖縄戦も同じだ』

[質問]日本の行為の報いとして、原爆投下や東京大空襲沖縄戦で多数の一般市民が殺されたということか。

[本島]『因果応報的であらっぽい考えといわれるかもしれないが、日本が戦争を仕掛けたときから、昭和天皇をはじめとする指導者はどういう報復があるか分かっていたはずだ』

[質問]原爆や空襲、沖縄戦の犠牲者に責任があるのか。

[本島]『戦争責任は昭和天皇をはじめとする戦争指導者だけでなく、マスコミにあおられて狂信的に戦争を進めた一般民衆にもある。全国民を裁くわけにはいかないので、東京裁判で指導者が裁かれた』

[質問]日本の「悪魔の所業」とは具体的に何を指すのか。

[本島]『条約を踏みにじって奇襲攻撃を仕掛けた日清・日露戦争アジア・太平洋戦争で行われた化学兵器生物兵器を使った大量虐殺。例えば、南京大虐殺三光作戦731部隊だ』

[質問]核兵器の使用は非人道的とは思わないか。

[本島]『1996年(平成8年)に国際司法裁判所核兵器の使用を『一般的には違法』と判断したが、それまでは規定はなかった。当時の原爆は今の核兵器と比べれば、おもちゃのようなもので、通常兵器と変わらない。原爆による死を残酷だというが、南京大虐殺三光作戦による死もすさまじい。書物によると、中国で日本軍に殺された人は1000万から1500万人、インドネシアでは400万人、フィリピンでは110万人。原爆や空襲犠牲者の数とは比べものにならない』

[質問]被爆者や遺族をはじめとして、世論は反発するのではないか。

[本島]『自分の信念を言っているだけだ。世界の人々の共感が得られない原爆観、戦争観ではだめだ、と訴えたい。近く論文にまとめたい』
(以上、産経新聞 平成10年(1998年) 8月1日より)

どうだろう。本島氏の持論によれば、日本軍によって殺されたアジアの人々は1500万人から2000万人という途方もない数になる。
いったい、どんな書物にこんなことが書いてあったのだろう。

広島、長崎型の原爆は、確かに今のメガトン級の水爆と比べるなら、「たかが80キロトン程度のおもちゃのようなものである」という表現も、文学的にすぎるにしても間違いではない。しかし、それによる20万人の死と上の1500万人乃至2000万人の死を比較した場合、文学的にはどういう比喩が可能であろうか。

本島氏流に言うなら、象の死に対する猫の死程度ということになるのであろうか。

この人は、晩年になってそうとう耄碌していたのではなかろうか。そうでなければ、こんな愚かなことは決して言わなかったであろう。

そもそも原爆は、通常兵器とはその破壊力もさりながら、質がまったく違うものである。その質の全く違う兵器の性能を確認するために、そして新たなる共産国ソ連との戦いに備えるために、アメリカは日本と日本人を実験台にしたのである。

大抵の日本人なら、右翼でなくとも、本島氏のような言い分を聞けば怒るに決まっている。この人の発言はまさに死者に鞭打つものだったのである。

だから、今摘菜氏が故人に極めて辛辣な、死者に鞭打つごとくの批判をしたところで、それこそ「因果応報」というものであろうと、わたしは考える。