ディジタル思考とアナログ思考

2011/10/27 07:56


新聞によると、オリンパスの騒動が一段と大きくなっているようだ。

最初は、英国人の社長が解任された、という比較的小さな記事だった。ところが、火のないところに煙は立たないの諺の通り、やはり大きな火種が隠されていたようである。火種というのは、オリンパスが実施したM&Aを巡る巨大な金の動きに反社会的勢力との関わりあいも指摘されるほどの不透明な部分があったということである。

この問題は、一企業の経済問題ではあるが、それだけでは済まされない面があるように、わたしには思われる。
また、経済的な側面は企業に限らず、どのような組織にも多少なりとも存在するものであるからまったくの他人事で済ますわけにもいかないという気がする。

特にわたしが思うのは、今回の騒動が菊川前会長の肝いりで社長となったウッドフォード氏のいわば内部告発に始まっているということである。要するに、菊川氏に少し同情をもって言うなら、氏は飼い犬に手を噛まれたのである。

ウッドフォード氏はイギリス人であり、そのこと自体は今日の経済界で珍しいことではない。ソニーにしても日産にしても社長は外国人である。
しかしわたしは、今回の告発は、氏がイギリス人であったことと無関係ではないと感じている。さらに大きく言うなら、この問題の根本には日本的なものと西洋的なものとの確執があるようにさえ思えてくる。日本的なものというのを、大掴みにして言うなら多神教的、相対的な物事の捉え方であり、一方、西洋的なものというのは、一神教的、絶対的な物事の捉え方である。

わたしの考える相対的な物事の捉え方とは、白と黒との間に灰色の部分があるとするものであり、これに対し絶対的なそれには、黒と白しかない。換言するなら、日本人はアナログ思考であるのに対し、西洋人はディジタル思考の持ち主である、ということになる。

話は跳ぶが、わたしが英語と日本語の違いということで生まれて初めて驚かされたのは、島崎藤村の「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」というあの有名な千曲川旅情の詩に対する外国人の感想を教科書で知ったときだった。
何に驚いたかというと、この外国人が「この詩は結局何も歌っていないんですね」と述べていたことにである。
確かに、藤村のこの詩は、若草も藉(し)くによしなし、とか、野に満つる香(かをり)も知らず、とか、暮行けば浅間も見えず、とか否定ばかり多くて、彼らの感覚では何も情景が映らないのかも知れない。余白や行間、それに無いこと、物の不在に意味を見出すことが出きるのは、ひょっとしたら日本人の特質なのかも知れない。

もう一つ驚いた、というよりなるほどと思ったのは、確かマーク・ピーターセンというアメリカ人の書いたものを読んでいたときだった。
彼は、日本語を学習しているアメリカ人がまず一様に驚くのは、日本人がよく使う「あの人は思いやりが無さ過ぎる」というような表現であると述べているのだが、これはよくよく説明を聞かないと、彼らがこの表現のどこに驚いているのかがよく分からない。
実は彼らは、無いというのはゼロのことではないのか、だとしたら、ゼロより少ないということは論理的に有り得ない、と文句を言っているのである。だから、わたしは、なるほどと頷く一方で、彼らはなぜ日本人のような柔軟な物事の捉え方ができないのだろう、と不思議にも思ってしまうのである。

わたしが考えるに、この不思議な乖離は、彼らの思考方式がディジタルであるのに対し、わたしたち日本人がアナログ思考である、というところにあるのではないか、という気がするのである。だから、これはどちらが正しく、どちらが間違っている、というような問題では決してない。彼等がすぐに黒白を決したがるのに対し、わたしたち日本人はそれをなかなかやりたがらない。灰色に留めておいて、白と黒のどちらにより近いか、というような判断をする。

オリンパスに話を戻すなら、騒動の根本にある問題は別にして、菊川前会長は、思わぬ伏兵に肝を潰したことであろう。伏兵にというのは、この場合、フッドフォード元社長個人のことではなく、日本的ななぁなぁ的経営方式に対する西洋的な黒白のつけ方、ディジタル思考にという意味である。

わたし自身は、日本人であるから、やはり西洋的な物の考え方にはなかなか馴染めない。善と悪についても両者を画する明瞭な線などないと考える。だから弁護士などという商売だって成り立つのだというふうに考える。
だが、今回のこの問題が暗示するように、世界の七大文明の一つといわれる日本文明も、グローバリズムという強大な潮流には押し流されざるを得ないのではないか、という風にも思うのである。

さて、オリンパス。黒白の行方は如何に・・・。