子規の悟り

2011/09/12 22:03

「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
子規はこのように言っている。なるほどと肯かされる言葉ではある。けれども、本当にそうだろうか、とわたしは思うのである。

子規は、35になるのを待たずに死んだ。「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」という絶句があるが、今月19日がその糸瓜忌である。この句からも分かる通り、子規は肺結核を得て死んだ。長い病臥のうちに生涯を閉じたが、その短い一生はまさに子規、すなわちホトトギスの謂れのままであった。
ホトトギスは不如帰とも、また蜀鳥とも書く。これは、いずれも古代中国の蜀という国を再興した望帝にまつわる故事からきている。望帝は農耕技術によって蜀を再興したが、後に地位を譲って隠棲する。そして、亡くなるとホトトギスに生まれ変わり、毎年、農耕の季節がやってくるとそれを農民に知らせるため鳴くようになった。やがて月日は巡り、蜀は秦に滅ぼされてしまう。それを知った望帝ホトトギスは、不如帰去(もう帰ることができない)と鳴きながら血を吐いた。これにより、ホトトギスは不如帰とも書くのである。

子規はもちろん、この故事に因んでホトトギスを雅号とした。結核という、時には喀血して死ぬほどの病を得た子規は、俳人、そして歌人としての己をホトトギスに喩え、歌って、歌って血を吐くほどに歌を詠んで、そして死のうと考えたのである。当時、結核は死病であった。一度肺結核ともなれば殆どその寿命は限られていた。そのことを良く承知し、また病苦に苛まれながら吐いた子規の冒頭の言葉は、なまじの言葉ではない、とわたしにもよく分かる。
けれども、やはりわたしは、少し違うのではないか、といつものように強情を張りたいのである。

平然と死ぬことも、また平然と生きることも、人間という生き物にはとても難しい、とわたしは思う。なぜなら、パスカルの言うように、人間は考える葦だからである。
パスカルは、人間というものは葦のようにか弱い生き物ではあるけれども、葦とは違って考えることができる、だから人間は素晴らしいのだと言っている。そしてまた、人間はこの考えるという力によって、自分がいずれは死ぬということを知っている、だから人間は気高いのだ、と言うのである。またしても、なるほど、と思ってしまう。

けれどもわたしは、生来が大変な天邪鬼だから、やはり人間は知恵の実を食べてしまったが故に楽園を追い出されてしまった哀れな生き物に過ぎないと思ってしまうのである。
犬や猫を見てみれば良い。彼等は楽園に留められた生き物である。人間のようには死を意識しない。己がいずれ死ぬことは本能的に知っているであろうが、死を恐れているようには思えない。老衰で、あるいは癌で衰弱して死ぬときにも、人間のようにうろたえたりはしない。ときには、己の死に場所を求めて飼い主の元を離れることさえある。こうなると、人間と犬、あるいは猫とどちらが気高いか分からなくなってしまうというものではないか。

動物は平然と死ぬ。平然という言葉を「いつものように」あるいは「特別ではなく」と解するならば、彼等はまさに平然と死んでゆく。死は、彼等にとっては、まったく普通のことなのである。
そして、彼等はまた平然と生きている。事故で足を失おうと、また目が見えまいと、病気で苦しもうと、彼等はそれが当たり前のように生きている。それが当たり前のように生きられなくなったとき、後は当たり前のように死ぬだけである、と彼等なら言うのではないか。

子規の言葉は、大変に重いものである。病苦の中から生まれた、わたしをしてしーんとさせてしまう言葉である。しかし、やはりわたしには、人間というのは犬や猫にも劣る、どうしても悟ることのできない愚かな生き物と思えて仕方がないのである。
パスカルは優れた数学者であり、また科学者であり哲学者でもあった。しかしわたしには、パスカルのように人間の知恵が素晴らしいものであるとは思えない。人間の知恵は、やはり生きるために獲得したものであり、死ぬためのものではないからである。生きるための知恵は、決して気高いものなどではなく、ただ生きるために必要というに過ぎない。生きるための知恵なら、人間ほどではないにせよ犬や猫でも持っている。

もしも人間が本当に気高くあるなら、やはり平然と死ねるようでなければならない、とわたしは思う。人間の知恵は、死を前にしても何等恐れない、そのためにこそあるべきではないのか、と思うのである。知恵の実を食ってしまった以上は、人間はこの知恵によるほかに楽園を回復することは出来ないと思うのである。