描を猫く

2012/05/20 14:47


猫という字は、長らくながめていると本当に猫の姿に見えてくるから不思議だ。
ふうてんの寅さんの寅の字は、これは人が天に向かって厳かな祈りを捧げている姿を表しているのだという。
総入れ歯、いやそう言われてみれば、たしかに黄八丈のどてらをジャケットに仕立て直したような一張羅を羽織った寅さんが、今度こそはわが恋が実りますように、と両掌を合わせて拝んでいるように見えなくもない。

さて本題の猫についてだが、今朝の産経には、日曜日らしく高橋由一の鮭の絵と、それとはまったく別に猫をモチーフにした絵の展覧会が紹介されていたのだが、そのカットに使われている絵をよく見ると、いつの間にかチャトラ猫ちゃんがちゃっかり、かの有名なフェルメールの「青いターバンの少女」ならぬ「青いターバンの猫」に姿を変えているのだ。わたしは、こういうのを脂下がるというのだろうが、思わずにやっとしてしまったのである。

わたしも絵を描くのは好きなので、誰かが筆と絵の具とパレットとそれに画用紙さえ用意してくれさえすれば、いつでもOKよ、とばかりにかなり良い作品が仕上がるものと、取らぬ狸の自画自賛とやらをやっている。

つまり生来の筆不精なのである。筆不精の割にはこうして日記なるものを書いているが、それは筆を使う必要がなくなったから書くようになったまでで、PCなどがこれほど普及しなかったなら、一言一句とも書く気にはならなかったであろう。

さて、肝心の猫についてである。猫というのはまさに魔性の生き物である。これほど人類を文字通り虜にしてしまった生き物は他にいない。犬は自ら人の虜となる生き物である。牛馬は昔、まさに人の奴隷そのものであった。矮鶏や鶏は人に卵を供給するために生きているかのようである。
然るに猫は、猫だけは、人をして犬の如く、彼等、いや彼女たちの奴隷にしてしまう魔性の力をもっている。
人は、彼女たちが腹を空かせて赤ん坊のようなか細い声で泣きはじめると、もはや居ても立てもたまらなくなってしまう。鰹節でもミルクでも与えずにはいられなくなる。これは彼女たちが魔性の生き物だからである。

そしてあのしなやかさ。片腕に抱えようとしてもするりと抜け出て、床に音もなく着地すると、後も見ずにどこかへと立ち去ってゆく。そのクールさ。まるで、昔わたしを捨てた女を見るようである。

猫こそ、独立不羈の生き物である。わたしは彼女たちを讃える。
そして、なんとかわがものとするために彼女たちの絵を描いてみたいとしきりに思うのである