サンダカン八番娼館2

2011/08/29 12:07


昨日からサンダカン八番娼館を読み始めた。

山崎朋子さんの本はこれが初めてだが、読み始めてすぐに、これはすごいと思った。すごいのは本の中身もだが、なによりも山崎さんのバイタリティである。そして、彼女の取材対象となったおサキさんもすごい。貧しさ故に10歳にしてはるか南方のボルネオ島にまで売られて行き、悲惨な生活を送りながらも少女のような純真さを忘れない、本当に古き良き日本の精神を持った素晴らしい女性である。

山崎さんとサキさんとの邂逅のシーンは次のように書かれている。

昭和43(1968)年の夏に、山崎さんは初めて天草を訪れる。その目的は、からゆきさんを自らの手で探し当てるためであった。しかし、一人ではさすがに心細いので、福岡に住む友人にして詩人の森崎和江さんを訪ね、彼女が紹介してくれた豊原玲子さんと天草に発つのである。この豊原さんというのは、大学の図書館に勤める傍ら油絵を描いていて、今回はスケッチ旅行を兼ねてということだった。
二人は水俣から中型の連絡線に乗り、島の南玄関、牛深に向かうのだが、この船には彼女達の他にも何人か観光客らしき若者が乗っていた。出向して一時間もたったころには、若者と島の人たちとで「東京から来なされたのか」とか、天草ではどこを観たらよいのか」といった類の会話が交わされるようになった。
ところが、彼女たちが地元の人たちにからゆきさんについて訊ねようとすると、先ほどの若者たちへの対応とは一変して彼等の表情は曇り「そげなことは聞いたことも無か――」と答えるか押し黙るかの二つに一つしかなくなってしまったという。それほどにからゆきさんは天草の人たちにとってタブーなのだ。

さて、船は無事港についた。先行きの不安を感じながらも、彼女たちは気を取り直して港の小さな氷水屋兼食堂に入る。すると、そこにひとりトリの足のように痩せ細ったおばあさんがいて、見ていると、そのおばあさんはペコペコのアルミの灰皿から灰を篩ってタバコの吸殻を集めている。山崎さんがハイライトを一本抜き出して「おばあちゃん、これもどう」と勧めたら「いやぁ、奥さん、すまんかことですばい」と言って受け取った。そんなことからこの老婆との取りとめもない会話が始まった。
山崎さんは、この老婆が天草の人のはずなのに要所要所では都会の者にも分かる話し方をすることに気がついた。それで、「おばあちゃんは、ちゃんと分かるように話してくれて、どこかよそで暮らしたことがおありなんですか」と聞いてみると、
「そりゃうちはハイカラもんじゃけん」と応えたのだ。
これではっとした山崎さんは、連れの豊原さんに目くばせして、一人この老婆の家まで着いて行ったのである。

さて、そのおサキさんの生活ぶりというと、

おサキさんは、京都に住むというひとり息子からの月4千円の仕送りのみで生活している。灯りは30Wの電球が一つのみで、これは電力会社が電気料金を払えない者にサービスしているものである。衣類はわずか数枚。そして、家中見渡しても井戸もなければ水道もない。あるのはただ、彼女が粘土を手でこねて作ったと思しき原始的なかまどが土間にひとつ。その上に真っ黒にすすけた薬缶がかかり、横に蜜柑箱が置いてあって、鉄鍋がひとつあるだけ。さらにその横に、水漏れのする洗面器一個とそのなかに入れられた茶碗五、六個があって、それが台所用品のすべて。汁椀もなければ皿もなく、御飯もおかずもみな茶碗に入れて食べるのだ。

水は、家の入口の庇の下に水がめが据えられてあって、これに、二、三十メートル離れた小さな松の木の下にある井戸から、凸凹のバケツで水を汲んで来て入れておくのだという。その井戸というのも実は名ばかりで、ただ道の真ん中に直径80センチほどの穴が開いているだけのもので、蓋もなければ石囲いすらない。覗いてみると、底のほうに水が少し溜まっていて、それを荒縄つきの凹凸バケツを降ろして汲み上げるのだ。上がってきたバケツには木の葉や虫などが浮かんでいる。この水を先ほどの水がめに蓄えて使うのである。

家には風呂はもちろん、トイレさえない。それではどうやって用を足すかというと、裏の崖の下まで小のときは手ぶらで、そして大のときは鍬を持って行き、地面の柔らかそうな所に穴を掘って、用が済めばその穴を埋めてしまうのだ。山崎さんも、この老婆と3週間生活を共にしたわけであるから、すべてこの手法?で用を足したのである。
また、風呂はこの老婆の甥の家にもらいにいくのだが、その風呂もレンガをいくつか置いた上にドラム缶を乗せたものである。風呂場には電灯も蝋燭の明かりもないので、真っ暗な中、月の灯りを頼りにその中に入るのだが、初めてこの風呂に入ったとき、彼女の肩に何か柔らかでねっとりしたものが触れた。瞳を凝らして見ると、「わたしのすぐ鼻先に大きくて真っ黒な牛の眼があった」

山崎さんは、このような家に3週間住んで、おサキさんの境涯を聞き取ったのである。ただ、おサキさんの話をそのまま紙に書いて残したのでは近所の人の目に留まるかもしれないので、彼女の話をよく聞いて、それを頭の中によく記憶、そしてよく咀嚼して、一人になったときに紙に書いて、そしてそれを毎日郵便で東京の自宅にまで送ったのだ。
しかし結局、明日は東京へ帰ろうという最後の日に山崎さんはおサキさんの前に手を着いて次のように尋ねている。山崎さんは、そのときのことを「真っ黒なご飯」の中で次のように書いている。(これは1988年鳥取市民会館で講演したものである)

「朋子は明日、東京へ帰らしていただきます。でも、その前に一つだけ聞かしてもらいたいことがあります。あなたは私が何のために、ここにこうやって暮らしていたか、そのことをお尋ねになりませんが、知りたくはございませんか」
すると、おサキさんはびっくりした顔で
「いやぁ、おまえ、それがどんなに尋ねてみたかったかしれんぞ」
山崎さんは驚いて、
「そんなに聞きたいんなら、毎日目の前にいたじゃない」
そうすると、おサキさんは、
「おまえが自分の口で言えるほどのことだったらば、自分で話そうものを。自分で言えないことを、どうして他人の私が聞いてよいもんかね」

(おサキさんが)亡くなるまでの間、私、毎日手紙を出し続けましたが、その文字を一字とて自分の目で読むことのかなわぬ女性でございます。その方が書物や、あるいは人のお話から得た言葉ではない、掛け値なしの言葉だと思います。

人間というのは、もちろんこの私も含めまして、非常に愚かなもので、人の人としての値打ちを、その人がもっております社会的地位、金銭の多寡、学歴、家柄、年齢、容姿、すなわち外側の物差しでのみはかりがちでありますけれども、人としての値打ちはけっしてそれだけで測ってはならないということを、私はこのおばあさんから教わりました。

私、実は、この『サンダカン八番娼館』を四百九十八枚の原稿に書きましたあとで、四年の間、発表をしませんでした。おばあさんはつい最近まで存命でいらっしゃいましたので、この本が出て、おばあさんに迷惑がかかってはならないと思ったからでございます。でも、おばあさんことが心配なものですから、下宿人の賄をしながら、せっせと五円、五十円と五のつくお金を貯めまして、遠い天草まで行っておりました。

あるとき、おばあさんから、
「朋子、おまえ、うちのことを、本に書くと言うとったが、あれはもう世に出したのかね」というお尋ねがありまして、正直に胸の内を伝えました。そうしましたら、おばあさんはその八十年の長いご生涯の中で、私が見た唯一怖い顔をなさいまして、

「おまえはなんちゅうだらしのなかことば言うちょるか。朋子、おまえにはね、文字というものがあるじゃないか」と叱られたのです。

それまでの私は、山崎朋子がからゆきさんの本を書く、ということしか念頭にありませんでした。しかしながら、この目に一丁字を持たぬ老女にとりましては、山崎朋子のペンであろうと誰であろうと、かまわないのです。たいへん至らないペンではありますが、私が持っているペンは私のものであって私のものではないということを私は知らされたのです。それでようやく書物の発表に踏み切ることができたのです。

けれども、私は今、皆さま方を前にして、あの天草の偉大なる先生、私の大いなる母親は、けっしてそのような小さな意味で、『文字というものがある』という言葉を使われたとは思えないのです。読み書きができ、その日の暮らしを普通に営むことができるほどの人間であれば、その生きる人生の課程において、いつでもかまわないから、人それぞれのやり方において、自分よりも悲しみを抱いている人々に対して、人としてのそれなりの責任を果たせよ――と、言いたかったであると、今、しみじみ思っております。

文芸春秋山崎朋子さんの講演内容を知り、サンダカン八番娼館を読んだ。わたしの短い、けれども有意義なサンダカンへの旅は終わった。
せめてわたしは、幼くしてからゆきさんとして売られ、遠い異郷の地で死んでいった薄幸の娘たちの霊を慰めたいと思う。