予見の問題なのか(東電裁判に思う)

東電の旧経営陣と呼ばれる人たちに無罪の判決が出た。この裁判の争点は、大津波の予見性にあったという。

東電設計(東電の子会社)が注進に及んだ高さ15.7メートルの津波の可能性を3人の旧経営陣は確かに聞いていた。だから、少なくとも東電設計の予見(予言ではない)を彼らは知っていたはずである。
そして、今回の裁判結果が今回下されたように無罪ではなく、極端な話ではあるが、自分たちが終身刑、あるいは死刑になるかも知れないという予見性も彼らが合わせ持っていたとしたなら、わたしは、彼らの不作為は変わっていた、少なくとも非常用発電機をもっと高いところに移すなど、最低限の対策はとっていたのではないか、と思うのである。

なにが言いたいのか? 

今回の判決にはなんの生産性もない、ということである。司法が、あの大災害から何の教訓も得ていない、ということである。


千年に一度の大地震とそれによる津波を予見できる者などいるはずがない。

しかし、原発は少なくとも40年間は運用されるはずである。千年に対して40年は取るに足らない数字であろうか。千年に一度であろうと、今回の原発事故によって日本という国家は、そして福島をはじめとする地域の住民たちは、いったいどれほど大きな損害を被ったのか。それは、もちろん金銭では計り知れないものであるが、何兆、何十兆という規模のものだったのではないか。
わたしは、このような裁判結果は根本が間違っていると感じる。裁定の根本にあるべきは、シビアなリスクマネジメントなのではないのか。国家の存亡にさえ関わりかねない事業を行う者はどうあるべきか、という責任の問題なのではないのか。
万が一、とはよく言うが、今回のような事態は1000分の40、すなわち25分の1の確率で起こる恐れがあり、起こってしまった場合にはその損失は上に述べたような何兆、何十兆円というものになり、しかもその悪影響は後世も受け継いでいかなければならないのである。
旧経営陣には厳しい判決を下すべきであった。
でなければ、今後も東電設計のようにいくら真摯に注進に及ぼうとも近視眼的経営陣や資本家によって、様々な言い逃れの元、葬り去られてしまうような事例が大にしろ小にしろ後を絶たないと思うのである。