1と2

2012/03/11 18:14


コギト・エルゴ・スムという呪文のような言葉は、長く人類の脳に焼き付いてきた。「我思う、故に我あり」と訳されるこの言葉はまた、長らくわたしも悩ましてきた。
悩ましてきた、というほど大仰なことではないが、ほんとかな? という疑問は常にあった。

自我というものの本性を表すためにデカルトはこの言葉を発明したのではない。
デカルトさんは、もっと高尚なことを証明しようと試みてこの言葉に至った。
しかし、いまわたしが述べてみたいのは自我というものの正体についてである。
なぜなら、この自我のゆえに人は様々な悩みを抱えてきたと思うからである。
「我思う」のが自我であるとするなら、何も思わぬ、何も考えぬ無我の境地こそ理想の姿かも知れない。

デカルトさんには曲解の、ごく当たり前の論を展開して申し訳ないが、「我思う、故に我在り」なのではなく、我が存在するから、我は思う、のである。
わたしという自我は、わたしの肉体の存在なしには在りえない。精神は、肉体の進化と共に進化を遂げてきた。
大脳が発達したから、人間は哲学などという高尚な学問まで究められるようになってきた。
あるいは、幾何学や数理といった数学を発展させてきた。物理学も然りである。

では、なぜ大脳は発達したか。ダーウィンを引くまでもなく、それが人類の生存と繁栄に大きく寄与するものだったからである。
しかし、紙には両面があり、糸にさえ両端がある。
大脳の発達にもまた、負の面があった。大脳の発達ゆえに、人間は常に懊悩する動物になってしまったのではないか。

一見なに不自由のない若者も、毎朝鏡を前に己の醜いニキビを抓っては懊悩し、壮年は出来の悪い息子やがんの心配をし、年寄りは年寄りで冥途の旅支度で頭を悩ませなければならない。

要は、何事にも一挙両得というのはなくて、人間というのは、結局はアダムとイブの話の通り、知恵による繁栄と引き換えに精神的懊悩を得てしまった生き物である、ということなのだ。