運命論とゼノンの背理

2013/02/27 10:22


今日は生憎の雨だが、今頃の雨にもそれなりの情緒というものがあって、それはそれでなかなかいいものだ。
通勤の電車の窓から外を見ると、雨に煙った港の佇まいにも心打たれるものがある。
灰色というのは、色彩を際立たせる。全体がグレイの基調の中に小型船舶の青や赤がパステル調に溶け込んでいたり、暗い海の波の一つ一つにも色彩の表情が感じられたりする。
一昨日の夜は満月が雲の合間から煌々と照っていて、澄みきった空気のためか星が一層明るく煌くのが見えた。
その星の光を見ていて改めて想ったことがあった。あの星の光というのは、何億年、あるいは何十億年前のものなのだな、ということである。
それから少しばかりこの考えを飛躍させて、またしてもわたしの運命論を展開してみたのである。
わたしたちの運命は、いやわたしたちに限らず、すべての生きとし生けるもの、そして星や岩や水など、命を持たぬものさえも自ずと運命というものをもっている。
それは、以前にも記したことがあるが、たとえばπやeといった超越数のように、それが一定の固定した変えようのない数字の連続であることは自明であるのに、どんなに優れたコンピュータを駆使しても、解明したさらにその先の数字の配列は分からない。「運命」もこれと同じ性質のものである、ということを述べたつもりだった。
星を見ていて想ったのは、この考えを補強するものだった。
わたしは運命論者であるから、結局は自身の運命論を導き出すために、ウィティゲンシュタインのいう「手品における決定的動き」を使っているだけなのかも知れない。
しかしそれでも構わない。星を見ていて想ったことを述べてみよう。この宇宙が静止したものであるということの、つまりリジッドな結晶体であるということの、半分くらいは証明になるかも知れない。
星(仮にSとしよう)からの光は同心円(球)状に、つまり全立体角に広がっていく。Sからの距離が1億光年であれば、Sの姿は1億年前のものである。
そうすると、この大宇宙のほんの一部に過ぎないにせよ、その半径1億光年の球体の中には、光よりも早い伝達手段がない以上、1億年に及ぶSの運命が詰め込まれていることになる。
さらに言うなら、宇宙は膨張しているから、Sの光が地球に届いたころには、Sは地球からさらに離れた位置に存在していることになる。このことと、先に述べた超越数とには何の連関もないであろう。
しかし、類似性は見出せるはずである。つまり、1億年に及ぶSの運命は固定した、つまりすでに決定されたものであるにも関わらず、わたしたちは決してそれを知ることはできない。
このことは、少なくともわたしにはスーパーコンピュータを使ってπの究極を追っている(?)姿と重なって見えるのである。たとえ1億年かけてもSの姿を明らかにすることは絶対にできない。1億年後にはSはさらに遠のいているからである。
運命とは、ゼノン背理そのもののようである。