運命の光球

2016/03/10 14:09

山口百恵に「さようならの向こう側」という切ない歌がある。百恵ちゃんのlast songである。

♪何億光年 輝く星にも 寿命があると 教えてくれたのはあなたでした・・・」というもの。

この歌詞のおかしいところは、何億光年という距離の単位があたかも時間の単位のように勘違い?されているところだ。

もちろん、阿木燿子さんがそのような勘違いをされるはずがない。ここでの何億光年をそのような物理的なものに解釈してはいけない。詩的に解釈しなければならない言葉なのだ。

とはいえ、これを物理的な時空という概念で解釈しても、これはやはり詩的な、ロマンティックな言葉である。(物理にはカクテルの名前よりもはるかに詩的な言葉が多いのだ)

1億光年というのは時空である。時間でもあり、空間的距離でもある。それは、光が一億年かかって到達できる距離である。

そこで思うのは、何億光年離れたある惑星Xからの光が今地球に届き、わたしたちがそれを望遠鏡なりで観察している、とする。望遠鏡の精度が素晴らしくて、Xで起きている事象、例えば革命の姿が詳らかに捉えられた。革命は3ヶ月続き、その事実はことごとく記録された。

すると、この革命の光球とは、惑星Xから発せられた3ヶ月の厚みを持つ光の皮(何億年の厚みに対してわずか3ヶ月の厚みしか持たない)であることになる。

わたしは何を言いたいのか?

わたしたちの生涯も、たとえわたしたちが死んでしまった後も、光球の薄皮として、まるで「さまよえるオランダ人」のように、永遠に宇宙をさまよい続けているのではないか、ということである。

先の日記でわたしは、運命は変えることができない、と述べた。これに付記すべきは、運命は変えられない上に、永遠に記憶される、ということになる。

わたしたちは、運命は変えることもできないが、かと言って、これを疎かにすることもできないのである。どのような運命の元に生まれてきたとしても、わたしたちは、この運命に誠実に、健気に生きる以外にはない。なぜなら、その誠実さも健気さも、永遠に光球に刻まれてしまうのだから。