文化のガラパゴス

2013/04/30 12:58


最近はもっぱら英語で書かれた本を読んでいる。読んでいて思うのは、ローレンス・ブロックやマイケル・クライトンのような作家はわが国には絶対に現れないであろう、ということである。
これはもちろん、彼我の優劣について述べているわけではない。彼我の違いは文化の違いであって優劣とはまったく別のものである。ただセルラーフォン一つとっても、日本のそれがガラパゴス携帯と見事なまでに揶揄(自嘲か)されるように、わが国の文学というのはやはり独自の文化の中でのみ生存が可能なもののように思える。文学に限らず、あるいはその他のエンターティメントにしても然りである。

ローレンス・ブロックの書くものはノワールに分類されるであろうか。その作品の主人公は泥棒であったり、アル中であったり、あるいはヒットマンであったりする。
アル中と泥棒までは許せても平気で無辜の市民(読者には彼、または彼女がなぜケラーに殺されるのかほとんど説明されない)を殺す男に果たして読者は感情移入できるものだろうか、というのが「ヒットリスト」を読み始めてすぐに感じたことであった。わたしの場合、感情移入どころかケラーという男に嫌悪感さえ覚えた。なにせ、この本の最初でケラーが殺す男は小さな子供二人をもつビジネスマンなのである。


もちろん、日本にも「必殺仕事人」があり、またゴルゴ13も日本人が生み出した国際的ヒットマンである。ケラーが依頼を受けた殺人をたった一人で行うところなどはゴルゴ13に相通じるところもある。
しかし、両者の大きな違いはその現実性である。ゴルゴ13は、こう言ってしまえば身も蓋もないことは分かっているが、絵空事である。所詮は漫画に過ぎない。ケラーはどうか。こちらの方は如何にもアメリカならではの話、つまり「さもありなん」と思わせるストーリーなのである。


一方、マイケル・クライトンのものは、このひとの科学、あるいは医学の知見に基づいたものが大半で、そのいずれもがエンターティメントの要素を満たし成功をおさめている。
「エアーフレーム」(わたしは13時間にもおよぶオーディオブックを買って聴いた)は、航空機メーカー、そして航空業界の内部事情を織り込んだエアーサスペンスとでもいうべき作品で、これ一冊を読んだだけで飛行機のことが大抵分かったような気になってくる。


“In Case of Need” 無理に訳すなら「緊急の事態には」とでもなるのだろうが、これにはER同様、医学者としてのクライトンの経験と知識が大いに盛り込まれている。
さらに言えば、この作品はアメリカの大きな社会問題である堕胎を中心に据えたストーリーなのだが、その周辺には宗教や医療問題、また人種やドラッグなどの問題が何ら違和感なく収められていて、さすがにエドガー賞を受けただけのことはあると思わせてくれる。


日本の文学はつまらなくなったのだろうか。おまえはただ本当におもしろい文学作品を知らないだけなのだ、と思ってみたりはする。たしかに三島を読み福永武彦も読み、大江健三郎さえ読んだ。さえ、と言ったのは、わたしはこの人が嫌いだからである。
確かにみな面白くはある。だが、やはりその読後感は一味違うのである。


これは喩えてみれば、国内旅行と海外旅行の違いなのだろうか。それとも、やはり日本人というのが遺伝子的にも文化的にも余りに画一化してしまった結果なのだろうか。