「われ」は妄想である

2014/05/25 16:15

このトピのタイトルは「神は妄想である」ですが、わたしはこれに大変惹かれました。

いきなり飛躍するようですが、コギト・エルゴスムについて考えていて、かの有名なアラン・チューリングのことを思い浮かべました。

ある研究所が人工知能AIを開発して、それが少なくとも見かけ上は人間そっくりの感情を持ち、また思考の仕方をするまでになったとしたら、わたしたちはそのAIと電話で話をしたときに果たしてそれがAIであると見抜けるだろうか、という疑問に対するチューリングの回答についてです。
チューリングは、もしも見抜けなかったら、そのAIは人間と同じと考えて良い、と答えたのです。

デカルトは、われ思うゆえにわれあり、としましたが、それでも「われ」が妄想である可能性は否定できません。なぜなら、チューリングテストで人間として合格したAIは人間が作ったものだからです。

AIはプログラムですから、当然に痛い痒いといった感覚はありません。また感情も持ちません。しかし、電話でのやり取りでは彼(または彼女)がAIであろうことは誰も見抜けませんでした。

これを人間にも敷衍して考えてみると、こういうことになりはしないでしょうか。
つまりわたしたちは、お互いを同じ人間同士であることを前提に話をしたり交際をしたりしているわけです。
同じ人間同士であるということは、たとえば色彩という感覚を例にとりますと、お互いに赤とか緑といった色を相手も自分と同じ色として認識している、と考えます。いわば色の感覚はコモンセンスなわけです。
これは痛みや痒みといった他の生理的感覚についても、また喜怒哀楽といった感情についても同じことです。

しかし、ここで問題があります。もしかすると、Aさんが感じる(信じる)緑という色をBさんはAさんが赤と感じる(信じる)色と同じ感覚で視ているのではないか、という疑問です。

仮に、Bさんの網膜には赤ん坊のときから赤を緑に青を黄色に、つまり原色を補色に変換する仕掛けが施してあったとします。そうしますと、これは赤ちゃんのときからそうなわけですから、上のような疑問がまさに現実化することになります。

問題は、もしもBさんにそのような仕掛けがしてあることを知らなければ、果たしてAさんとBさんの感覚の違いを証明することができるだろうか、という点です。これは実際不可能ではないでしょうか。

色とか臭いといった感覚は、いわゆる脳のクォリアにかかわることですが、これは数値化が可能なはずです。つまり、プログラムで認識の可能な範疇になります[緑と赤を数字化するなら、緑の1010(10)に対し赤は0110(6)になります]。Bさんは、緑を0110で感じているのですが、Bさんの脳はそれを自動的に1010に補数変換してしまっているのです。

結論的には、わたしは、アラン・チューリングは正しくて、人間の感覚や感情といえども結局は機械的なものであり、身もふたもない言い方をするなら数値化可能なプログラム、またはデータに過ぎない、ということになります。しかし、その数値は、数値とは言ってもおそらくがちがちに固定したものではなく、ある程度の揺らぎを持ったものにはなるのでしょうが・・・。

さて、おかしな言い方ですが、わたしたちがロボット(ヒューマノイド)となんら変わらないなら、ロボットのAIに仕込まれた「われ」もまたコギト・エルゴスムと考えるのでしょうか。