左右と精神

2014/06/22 09:56

鏡というのは、左右を逆に映しますね、というと、たいていの人は素直に頷く。本当ですか、と訊くと、少し怪訝な表情を浮かべながらも「え、本当でしょ」などと応える。

右とか左という言葉はとても便利である。しかし、磁石のN極、S極と同じで決して単独では存在しえない。いわば相対的な言葉である。
宇宙に絶対的な上下がないのと同じように、宇宙には絶対的な左右はない。

しかし、光学的左旋性とか右旋性と呼ばれる化学分野、そして生物学の分野で重要な性質がある。
分子の立体構造は、光学的左旋性(L型)と右旋性(D型)とでは、幾何学的に、たとえば左手と右手が決して重ね合わないように、重ね合わせることはできない。
わたしたち生命の身体はすべて光学的左旋性(L型)のアミノ酸で構成されていて、決して右旋性(D型)のアミノ酸を吸収合成することはできない。なぜ、生命はD型を選択しなかったのか。この生命を貫く法則の謎は未だ明らかにはされていない。

鏡に戻るなら、鏡を正面に置いたときに左右は逆にはならない。
逆になるのは、前後である。
鏡を北に置いたとしよう。鏡を前に、あなたが東に動いたとしよう。鏡の中のあなたも東に動くはずである。
あなたが北に進んだとき、鏡の中のあなたは南に進むはずである。

上のことから何が分かるか。中学生の理科で習ったフレミングの右手、および左手三指の法則である。

右手が発電機、左手はモーターに相当する。指にはそれぞれ意味がある。親指が運動(回転)の方向。人差し指が磁力線の方向。中指が電流の方向である。

ここで、中指同士を突き合せてみよう。つまり、電流の方向が逆になった(右手の発電機から左手のモーターに電流が流れると考えれば良い)とき、発電機とモーターとは同じ方向に回転し、そのときの磁力線の方向(つまりN極とS極の位置)も同じである。

わたしたちが普段、右翼とか左翼とか政治的な意味合いを込めて使うことの多い左右という言葉だが、物理的には非常に奥の深い概念である。
そして、わたしがここで強調したいのは、このような概念を、わたしたちの精神はごく当たり前に自分のものとして取り込んでいるということである。