「さて、死んだのは誰なのか」

2016/03/10 15:03


池田昌子さんに「さて、死んだのは誰なのか」という奇妙なタイトルの本がある。

このタイトルからわたしが連想するのは、SF作家、梶尾真治の「未亜へ贈る真珠」という短編である。

ある若い恋人同士がいる。航時機というものが発明され、男がその実験台となり未来へ行こうとする。このマシーンは、その透明なカプセルの中に入ると、時間の進み具合が外側の8万5千分の1になってしまう。つまり、24時間かける3,600秒イコール86,400秒であるから、中に入ると、外側の1日がわずか1秒ばかりになってしまうのである。男はただ、銅像のようにカプセルの中で立っているだけである。

未亜は、航時機館に設置された航時機の恋人を毎日のように訪れる。来る日も来る日も訪れるのだが、カプセルの中の男にとっては、1か月が30秒ほどでしかない。1年でやっと6分である。

とはいえ、さすがに何年も何十年も経つと、ずっと航時機館に通いつづけ自分を見続ける未亜の顔からは次第に若さが失われ、老いも見受けられるようになってくる。
そうしたある日、終に未亜は・・・、という話なのであるが、結末まで書き記すことは差し控えたい。ただ、鋭い人であれば、未亜へ贈られる真珠が何を意味するかすぐに気が付くであろう。

わたしがこの小説の読後感として、もっとも強く抱くのは、冒頭の「さて、死んだのは誰なのか」ということである。

死んでしまったのは、果たして未亜だったのであろうか、それとも航時機の中の男であったのだろうか、ということである。

考えてみれば、切ない、惨いと言ってもよいほどの、悲恋の物語である。


SFは、こういった人間としての、あるいは生き物としての悲しみや喜びを読むものに喚起させる力を持つものであってほしい。サイエンスは、本来ただの道具に過ぎないのだから。

未亜は、若くして死んでしまった恋人をずっと、死ぬまで思い続けている女性の姿なのであろうか。あるいは逆に、何らかの理由により未亜と一緒になることができず、若かりしころそのままの彼女への思慕を抱いたまま老いていく男の姿をこの小説は描こうとしたのであろうか。

このSFはそのどちらにも受け捉えられるように考えられたとても巧みな短編である。