挨拶2

2016/06/05 13:46


抗日戦勝70周年だかなんだかで、かのシージンピン氏が閲兵をやった。やったはいいが敬礼した手が違っていた。このひと、左手でそれをやったのである。

ただの馬鹿がやったのなら、笑い種で終わる。いや、お笑い種にさえならないであろう。しかし、14億もの人民を擁する、200万もの軍人を擁する国家の最高権力者がこれをやったのだから、意味がないはずがない、と誰しもが思う。
もちろん、意味はあったのである。
それは、後付けのものであるにせよ、彼は最高権力者がやれば、過ちも過ちにはならないことを実践して見せたのである。
それが証拠に、少なくとも中国の新聞もテレビもこれを報じなかった。

敬礼は、挨拶の最も儀礼化、形式化されたものである。
大方の人は右利きであるから、わたしは右手に武器を持っていません、ということを示すためにこのような慣習が始まった、と言われている。
それを左手でやったのだから、普通なら「礼儀知らず」である。ところが、権力や地位の高いものがやった場合にはそうならない、ということのよい見本である。

だからなんなの? と聞かれれば、挨拶とは、目上のもの(そう自覚しているもの)が目下のものに求めるものなのだ、とわたしなら応える。自分が相手よりも上だと思っているから、相手が挨拶しなければ面白くないのである。
そういう意味で、挨拶は試金石にもなり得る。わたしに挨拶を強要する者は、少なくともわたしに挨拶をする義務があると感じている、ということなのである。

犬を見ていて分かることは、親愛の情を感ずるほど尻尾をよく振るということである。ただ、犬の世界は、狼の伝統を受け継ぐヒエラルキーの社会であるから、地位の高いものに対して地位の低いものが尻尾を振るという構図になりやすい。人間との主従関係においてもこの通りで、あまり女性が犬を甘やかすと、大きな勘違いをおこしてしまうことになりやすい。だから、飼い犬に手を咬まれるなんてことが起こり得るのだ。

権力のある者は、真の権力者は決して人に阿る、媚びるなんてことはしない。
もちろん、わたしがそうなのではない。人の世の中など、所詮そういうものなのだ。
だから、人の挨拶云々を口やかましく言う人は、それなりの高い地位にいるか、単にそう思い込んでいるか、どちらかに違いない。つまり、甘やかされて育てられた犬かも知れない、ということ。