神と脳について

2010/01/28 01:45

かなり以前に立花隆氏の「臨死体験」を読んだことがある。上下2巻の大変読み応えのある科学ドキュメンタリーであった。
氏は、このような際物とも思われかねない題材に取り組むにあたって、どのような態度で臨むかを相当に考えられたに違いない。その結果、この本の切り口は科学的でありながら、なお科学では踏み込めない領域があるのだという、いわば神秘や宗教に対する配慮というか余地を残すことも忘れてはいない。

臨死体験というのは、脳の領域の科学的な話である。仮死状態に陥った人間の脳内で通常ではない何かが起こったということであり、あの世というものが本当にあるかどうかなどという話ではない。ただ、その脳の領域で起きたことには、今なお科学的には解明できないことがあるということなのである。

アインシュタインの言葉を借りて言うなら「この世に不思議があるとすれば、それは脳がこの宇宙を理解できるということである」
そして、わたしが思うにこの言葉は、神はその姿に似せて人間を創られたというのと同義である。なぜなら、脳は小宇宙さながらにこの宇宙の持つあらゆる法則をぎっしりとその中に詰め込んでいるからである。

脳には人の顔のみに反応する顔細胞があり、また手のみに反応する手細胞というものもあるらしい。そして、驚くべきことには、神を認識する細胞もあるというのだ。
それは、ある信心深い人の脳の腫瘍を手術で摘出したところ、まったく神を信じなくなったということから分かったのだという。
しかし、仮にそれが事実だとして、いったいなぜそのようなものが存在するのだろう。実際に神が存在して、それを人間に知らしめるための装置として設け賜うたものなのであろうか。

しかし、わたしには、その答は既に出ているように思われる。それは、人間だけが持つ親に対する恩愛の情である。その源こそがその神の領域といわれる部位のことであろうとわたしは考えている。
幼子にとって、自分を創りだした母親は神そのものである。その母親を想う気持ちが神に対する畏敬や愛情に姿を変えたとしても何ら不思議はない。
また、母親を想う気持ちが父親や祖父母、そして曽祖父母さらにはもっと遠い先祖を敬う気持ちへとつながっていくのは、むしろ自然なことである。

ここで忘れてならないと思うのは、人間の脳というのは、爬虫類脳の上に哺乳類の脳が被さりさらにその上に大脳新皮質という人間に特徴的な巨大な脳が覆い被さっているということである。進化というものは、革命とは違って決して古いものを破壊したり廃棄したりしない。古いものを基礎にして発展をするのが進化なのである。
それにしても、神の領域と言われる部位が人間だけが持つ大脳新皮質にあるのだとしたら、それはやはり、人間以外の哺乳類や爬虫類など、人類がかつてそうであった下位の生き物たちを自らが神となって慈しみ守ってやるためではないかという気がするのである