アクセルとブレーキ

2010/02/06 16:23

天下のトヨタが憂き目に遭っている。今やフラグシップカーと言っても良いプリウスの制動装置の不具合をはじめとする大量生産車のリコール問題だ。

トヨタは、「良い品、良い考」をモットーに世界一のカーメーカーとなった。しかし、ここにきて堰を切ったように噴出し始めた様々なクレームには、民主党政権による日本の解体政策と相俟って否が応にも日の蔭りを思い起こさずにはいられない。

プリウスは、ラテン語で「魁」を意味する言葉であるという。確かにガソリンエンジンとモーターを組み合わせたシステムは画期的で最先端を行くものであるには違いない。しかし、電気で車を動かす方式が革命的かというととんでもない。実はガソリンエンジンで動く車より先に開発されていた。

ハイブリッド車というのは、両車の長所を上手く引き出すために開発されたものであるが、近い将来エコと省エネ両方からの要求により電気自動車が主流になることは確実と思われるから、いわばそれまでのつなぎ――ワンポイントリリーフの立場であることに大きな変りはないと思われる。

ところで、プリウスの場合、思わぬ伏兵に足元を掬われたと言えるのではないだろうか。電気モーターの回生という最も省エネに関わる部分にソフト上の欠陥?があったと聞くからである。

回生とは、電車などが速度を落とすときに一時的にモーターが発電機(ジェネレーター)となって、発電した電力を電線に返すと同時に電車に制動(ブレーキ)をかけるという一石二鳥の方法である。

プリウスの場合も、たとえば下り坂であればこの回生が働いて、ある一定の速度を保ったままバッテリーに電気を蓄えるということができる。蓄えた電気は、下り坂があれば必ず上り坂があるわけだから、次の上り坂で消費すれば理論的にはエネルギーを消費することなく車を動かすことが可能となる。

プリウスの場合、仄聞するところに拠れば、この回生制動とABS(アンチロック・ブレーキ・システム)の相性に問題があったらしい。ABSというのは、電子制御とはいうものの機械的なディスクブレーキなどにポンピング(断続的にブレーキをかける)をさせて車輪がロックすることを防止するものである。

ここで、わたしの頭に閃いたことがある。というのは、おそらく回生制動とABSがいわばジレンマに陥るようなケース、あるいはタイミングが生じた結果、今回の事態に至ったのではなかろうかということである。
つまり、回生システムとしては出来る限り電力を回収して省エネにつなげたい。ところが、ABSは安全第一でとにかく機械的ブレーキに制動を掛けさせたい。この両者が葛藤する須臾の間、ブレーキが効かなかいという現象が生じたのではないかと考えるのである。

ずいぶん長い前振りになったが、わたしが書きたかったのは実は車の技術的問題ではない。
タイトルはアクセルとブレーキであるが、これは感情のという意味でつけた。

わたしは、この会に入れさせてもらって以来、いろいろなブログなどを渉猟というほどではないが読ませていただき、日本人の持つ徳について、そしてそれとは対照的ないわゆる外国人による悪逆非道な犯罪について様々な知識を得ることが出来た。そして、わたしの中でそれらは結晶し、ゆるぎない思想となりつつある。

すなわち、彼ら韓国、朝鮮、シナの主張する日本人の戦時における非道は大方嘘八百か誇張であり、実は彼らが日常的、習慣的に行ってきた残虐行為を恐らく日本人も自分たちと同じことをするだろうというミスジャッジにより、いわば天国の絵のジグソーパズルに地獄の絵のピースを当て嵌めようとするものなのである。
どうやったって、辻褄の合うはずなどなく完成などする道理がないのだ。

今つくづく思うのは、わたしたち日本人とは実に抑制の効いた、つまり常にブレーキに片足を乗せた民族であるということである。そして、このようなブレーキの元というのは日本人に限らず、人類が等しく持つ「愛情」に他ならないということである。

「愛情」がなければ、強者は弱者を徹底的に痛めつけ最後には殺してしまうであろう。これにストップをかけるのが、兄弟だから、家族だから、同じ日本人だから、そして同じ人間だからという愛情があるからである。
これはもちろん人間だけではない。犬の好きな人は、喧嘩に負けた犬が腹を見せて降参の合図をすれば、強い犬はそれ以上の攻撃をしないことを知っているであろう。
動物であっても無用な殺生は決してしないのである。人間が動物と違うのは、この愛情が他の種にも及ぶということであると思う。そしてもう一つ、人間の中にはこのような慈悲の心、すなわちブレーキが壊れてしまっている人が少なからずいるということである。

つい先日もブラジル人が盗難車で歩道に突っ込み3人をはね殺すという傷ましい犯罪が起きた。逮捕された同乗者の一人は「はねたという覚えはない」と嘯いているという。このようなことは日本人では到底考えられない。

人をはねてしまって、恐怖の余りパニックになって逃亡するということはあるかも知れない。しかし、さんざん逃げ回った挙句に捕まって、やった覚えがないなどと惚けるのは普通の日本人の神経ではない。これはあるいは、文化や習慣、考え方の違いによるものであって、「神経」とは別物かも知れない。しかし、少なくとも彼らとて宗教心は持っているはずである。そして、それが邪宗といわれるものでない限り、人を3人も殺しておきながらそ知らぬ顔してとぼけることを善とする宗教などあろうわけがない。

感情のブレーキというものが壊れてしまっている人たち。ブレーキが効かないのにアクセルを踏みっぱなしの歩くリコール対象者たち。こういう者たちが、日夜平然とこの日本の街中を闊歩している。そして、民主小鳩政権はこのような危険な状況をさらに蔓延させるべくチャイナ製やコリアン製リコール者の大量輸入を画策している。

今、日の国を照らす太陽は単に雲に隠れただけなのだろうか。それとも、皆既日食に飲み込まれようとしているのか。あるいは、本当に日没が迫ってきているのであろうか。