最初と最後の特攻指揮官

2010/02/07 08:08

特攻隊について、あるいは三島の自決について書くとき、いつも忸怩たる思いに捕われる。彼らを尊敬する気持ちに嘘偽りはない。しかし、彼らの行為を自己犠牲だとか、英雄的であるとか、美しいとか、賛美すること自体がわたしなどには許されるべきではないという思いが働くのである。これは、キリスト教などで神の名を口にしてはいけないというのとおそらく同じ理由によるものであろうと思う。

わたしは、特攻隊員や三島とは違い安穏とした日々を過ごしている。ときに激しく不逞朝鮮人を非難することはあっても、それは面と向ってのことではない。自分を反撃の矢面に晒す危険のない位置から野次を飛ばしているに過ぎない。このような行為は所詮自己満足に過ぎず、被害も蒙らない代わりに何ら相手にダメージを与えることもない。相手に何ら痛痒を与えることがないばかりか、天に唾するが如く自らに無言の侮蔑が返ってくるだけである。ちっとも男らしい行為ではない。

城山三郎氏の「指揮官たちの特攻」を読み返すと、氏がどのような思いでこれを書かれたかが良く分かる。
城山氏は、徴兵猶予の利く理科系進学が決まったというのに海軍特別幹部練習生に自ら志願し入隊されている。終戦の年、昭和二十年のことである。本書でもそのときの体験が語られている。

「朝から夜まで拳骨や棍棒で殴られ続け。このため、誇張ではなく、大仏様のように瘤だらけ、尻りなどは痣だらけ。また、仕官食堂からは毎夜のように天ぷらやフライの匂いがし、分隊士室の掃除に行けば、白い食パンが青黴を生やして捨てられているというのに、私たちには大豆や雑穀まじりの飯が、茶碗にすれば一杯分ぐらい。おかずは芋の葉や茎を煮たようなものばかり。牛馬同然どころか、牛馬以下。
牛馬なら少なくとも夜は眠らせてくれるが、私たちは深夜眠っているところを、ハンモックの紐を切って、床に叩き落される」とある。

これだけ読んだだけで、如何に当時の軍隊が理不尽なものであったかがよく分かる。
しかしまぁ、軍隊などというものはどこの国であっても多かれ少なかれこのようなものではなかろうか。将校であろうと一兵卒であろうと指揮命令系統の中の一歯車に徹さざるを得ないのである。ましてや国家の命運がかかっている戦時中である。今のわたしたちの目で理不尽だなどと抗議しても、何を悠長なことをと忽ち切り返されてしまうだろう。

氏は、上のような自身の体験をベースに、2人の特攻隊指揮官とその周辺を丹念に取材されてこの本を書かれている。その動機には、止むに止まれぬものがあったに違いないと窺い知れる。

2人の特攻隊指揮官とは、真珠湾攻撃直前の昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した関行男大尉(当時)と中津留達雄大尉(同)である。
この本には「幸福は花びらのごとく」との副題が付いているが、その通り2人の指揮官の短い結婚生活を軸に語られている。

読み進めていくにしたがい、この副題の意味がしみじみと心に沁み込んでくる。関大尉にしても中津留大尉にしても、そしてその妻や子にしても何と幸薄い人たちであったことかと。
関大尉の母親であるサカエさんについても城山氏は丹念に彼女の足跡を追っているが、わたしは彼女が余りに哀れに思えてまともには読むことができなかった。

関大尉(戦死後中佐)はサカエさんの一人息子であった。彼女は息子の戦死を唯一の楽しみであった映画館の中で知らされたのだという。
ラジオの臨時ニュースで関が指揮する神風特攻隊が戦果を上げたことを知って知らせに来た人があったというのだ!

ここまで書いてきて唐突だが、この続きは、明日改めて書くことにしたい。疲れてしまったからである。
実はわたしの心は今憤りで一杯である。
わたしは、国はこのような人にこそ誠意を持って補償をすべきではないかという思うのだ。もちろん、サカエさんはとうに亡くなってしまっておられるからいまさら補償などしようがないが、このようなもの言わぬ弱い立場の人々はないがしろにしたままで、単なる職業的売春婦に過ぎなかった朝鮮人従軍慰安婦には多大な補償をするとはいったいどういう了見であろうかと憤りを覚えるのである。