KYまたは多様性について

2010/04/02 15:49

昨日も書いたが、KYというのは、このごろでは空気読めないの略語としてすっかり定着してしまった。元祖である「危険予知」とか「危険予知訓練」としてのKY、KYTは商標登録しておかなかったせいで、いつの間にか看板をとられてしまった感がある。

ところで、KYを空気読めないとするのは、普通の日本語の使い方としてはちょっと変だなという気がする。
「空気を読む」じゃないだろうかと思うのである。まあ、これはもちろん話の接ぎ穂のようなもので、深い意味はない。

しかし、空気を読むことは、危険を予知する上で非常に大切なことである。動物にしても植物にしても、周りの空気を的確に読むことによって生きながらえてきたからである。したがって、空気を読むKY=危険を予知するKYとなって、この二つが無関係でないことの証明が完了する。

さて、世の中には空気を読めない者が存在する。これはいったいどういうことなのであろうか。しかも、これは日本という狭い国一国に留まった話ではない。どこの国にも、ちょっと変った、周りの空気とは異質な雰囲気を漂わせた人物が存在する。あるいは、まったくそういう空気からは、いわゆる社会的風潮からは隔絶して孤独に生活している者もいる。ただ、こういう者は、ひっそりと目立たないように生活しているので、誰の目にも止まらない。誰の目にも止まらないということは、いわゆる普通の社会からは存在しないも同様ということになる。

このような集団の例としては、アメリカのアーミッシュ教徒がいる。アーミッシュの人々は、今でも頑なに17,8世紀頃の古い伝統を守り、厳しい戒律どおりに生きている。
また、個人としては、例のポアンカレ予想を解決したペレルマンなどもこの種の人物の一人になるのではなかろうか。

以上は、わたしの人間について管見であるが、動物にも似たような行動をとるものがいる。離れ猿とか一匹狼と称されるものである。
猿も狼も社会生活を営む社会性の強い生き物である。その社会性の強い生き物にも群れに馴染めぬ個体が存在するのである。
しかし、一匹狼とか離れ猿というと、非常に強い雄の個体をイメージするが、実体は権力争いに敗れて群れの中では生きていけなくなった、いわゆる負け組みなのである。
群れの中で生存していくという恩恵から遮断されてしまった彼らの行く末には暗雲が漂っていると言っても間違いはないであろう。

しかし、上の例は、次に述べる生物の多様性とはまったく様相を異にするものである。
生物には、同じ種でありながら個性が存在する。これは、当たり前のことのようでありながら、いや、当たり前のことであるが故に見逃されがちな事実である。
一番身近な人間の例を挙げてみる。
たとえば、知能。これは単純に言えば、どのくらいばかか賢いかということであるが、IQなどというものを使って測ると100を中心にしたいわゆるベル型(正規分布)曲線ができる。これはどういうことか。どの人種、どの国、どの民族、どの集団においてもそれに属する人々の知能を測ると、このような曲線になるのである。

たとえば、筋力。自分が長距離向きか、それとも短距離向きか、あるいはその中間辺りかという、おおよその自分自身のタイプは誰でも経験から承知していると思う。
仮に指標を100mを何秒で走るかにおいて測ってみると、これも上のベル型曲線になることはほぼ間違いない。
逆にマラソンを走らせてみて、タイムを測れば、これもまたベル型曲線になるであろう。
そして、面白いことに、100mを10秒で走る者が同時にマラソンの一流選手であることはあり得ない。逆もまた同じである。これは、筋肉の質の違いによるものだからである。つまりは、速く走れるか長く走れるかの二者択一であって、両方を兼ね備えるということはあり得ないのだ。だから、これはどちらが優秀であるかというような話では全くない。
知能にしても同じことである。ペレルマンは、余りに優秀な頭脳と引き換えに閉じこもりになってしまったとも言えなくはない(もちろん、科学的な証明はできない)。

知能にしても、走ることにしても、同じ人間でありながら相当のばらつきがあることは良く分かった。しかし、これらはほんの一例に過ぎない。このほかにも赤血球、白血球の型や皮膚や目の色、身長や脂肪の着き方等々、何千何万もの違いを見出すことができるだろう。

それでは、なぜこのようなばらつきがあるのか。それこそが生き残りを賭けた種としての戦略なのである。気候の変化、新たな天敵の出現、ウィルスや病原菌などによって、生命はこれまで幾度となく絶滅の危機に見舞われてきた。実際に多くの種が絶滅し、人類にしてもこの後100年間存続できるとは断言できない。

生き残る。命の火を次代に繋いでいくということは、生物にとっての最も基本的な善である。その善のために生命は多様性という戦略を行使しているのである。

人間にもちょっと変った個体が存在する。皆クローンのように一様であれば、戦争で滅ぶことはないかも知れないが、新種のウィルスが発生したときには全滅してしまうかもしれない。
組織であれば、同じ考え方の者ばかりが集まっていれば、その組織にはもはや活力が生まれるはずもなく、後は衰退を待つだけである。これは、国のレベルに拡張しても同じことである。

DNAに仕組まれた多様性。そして、人間が意図的に自身、あるいは組織に課した多様性。これらは、長期的かつ大きな目でみれば、人類として生き残るための壮大な戦略の一環とも言えるのではないか。

PS:何か書き忘れていると思っていたがやっと思い出した。なぜ知能の低い者が存在するかという理由についてである。これは、文化大革命ポルポト支配下カンボジアでどのような事が行われたかを考えてみるとすぐに分かる。
彼らが殺戮したのはいわゆるインテリばかりであった。
だから、わたしは革命は嫌いなのである。