ミニスカ革新論

2010/09/19 17:31


昔、もう40年以上も前のことだと思うが、ツィッギーというイギリスのモデルがミニスカートで登場して大変な評判になった。ツィッギーとは Twiggy で、小枝という意味である。その綽名のとおり、非常に痩せていて、余計な話だが、わたしなどのようにむっちりした太股の好きな男には、案山子がミニスカートをはいているように見えた。
ところで、このミニスカートであるが、これは決して一時的な流行ではなく、今や女性ファッションの基本アイテムとして定着しているのではないだろうか。10代、20代は勿論、50代くらいの昔のお嬢様がこれをお召しになっている姿を拝見することも決して珍しくはない。そして、わたしのようなコンサバな男も決してそれを厭とは思わない。いわば、ミニスカは、もうすっかりトラッドになってしまったのである。

ここで一つ大きな問題を提起したい。ミニスカートというのは、本当にファッションなのだろうかということである。
わたしは、ファッションの意味を深く追求したことはないが、男であっても女であっても、着る物というのは、当たり前のことだが眼に見えるものであると思っている。いや、他人に見せるための物であると考えている。
この考え方からいくと、たとえ穴の開いたジーンズを履き、汗と体臭に塗れたポロシャツ一枚、それに雪駄履きという格好の若者がいても、何と酷い格好をしているのだ! 金がないのか? ホームレスなのか? と考えてはいけない。ひょっとしたら、彼は億万長者の一人息子かも知れない。ボロは着てても心は錦ということを主張したくて、そういう格好をしていないとも言い切れないのだ。

股下も、いやまたしても余計な字数を使ってしまったが、要は、わたしが言いたいのは、ファッションというのは、その服装をして他人の目に何かを見させ、何かを語らしめる、あるいはメッセージを放たせるということだと思うのである。
しかるに、ミニスカートは、実は、特にわたしたち男族にとっては、ミニスカそのものを見ているのではない。その短い布のきれはしから覗いているあの何とも言えぬ魅力的なもの、つまり美脚を見ているのである。
いや、たしかにこれは屁理屈かも知れない。しかし、男にとって、あのような布のきれはしなどどうでも良いことは確かである。本当に大事なのは中身なのである。

さて、この屁理屈日記のタイトルは、ミニスカ革新論である。自慢ではないが、長い人生経験を持つわたしは、女性には2種類あることを知っている。ミニスカートをはく派とはかない派である。いや、実際にはこんなに単純に2分されるわけはない。一度はミニをはいたことがあるが、厭になってやめてしまった派というのもあろう。そうすると、3派に分かれることになるが、ここでは面倒くさいので、厭になって派もはかない派とすることにしよう。

わたしは、なぜこのように二分されてしまうのだろうかと考えたことがある。といっても、ぼんやりと、なんでだろう? と思っただけで、熟慮を重ねたわけではない。しかし、ミニスカートをはかない派は、たいていロングスカートというのか、丈の長いものをはいているということを発見した。それと、比較的長身で痩せ型が多いということである。
では、ミニスカ派はどうかというと、体型としては比較的むっちりというか豊満型に多い。つまり、わたしが思う理想的女性の体型をしているのである(これは、ことわっておくが統計的な綾ではない。つまり、わたしの視線が、わたしの好みであるところのミニスカ+むっちり体型の女性に強い指向性を持っているからということでは断じてない。わたしの冷静な観察眼によるものである)。

わたしは、ミニスカをはかない女性が保守的で、ミニスカを好んではく女性が自由主義的であるなどということを言っているのではない。
では、何かと言うと、ミニスカをはかない女性というのは、おそらく体型的にそれが似合わないことを知っているからはかないのである。自分の脚に自信がないか、あるいは見せるほどのものではないと思っている女性なのであろうと思う。これに対し、ミニスカ派というのは、少なくとも自身の脚にコンプレックスはない。逆に過去の経験から、自分の脚が魅力的であることを良く知っている女性であるに違いない。つまり、彼女はミニスカに語らせているのではなく、自身の美脚に語らせていると言えるのではないだろうか。

さて、最初に述べたように、ミニスカートは、登場した初めの頃には、大きな衝撃を持って迎えられた。しかし、今ではごく当たり前の、いわば定番アイテムになってしまった。

ここで、また話が横道に逸れてしまうが、わたしは三島由紀夫が「お茶漬けナショナリズム」と言う言葉を発明したのを良く憶えている。これは、当時まだ珍しかった海外赴任のサラリーマンが、ものの1週間も経たたないうちに彼の地での食事にすっかり嫌気がさし、しきりにお茶漬けを恋しがるということを哂ったものである。三島は、これは当人の、右だの左だのという主義主張に関わらず、みな一様にあんなぼよぼよとした歯ごたえのないものを懐かしがることから、これをお茶漬けナショナリズムと名づけたのである。

わたしは三島のこの言葉からヒントを得て、これのタイトルをミニスカ革新論とした。ミニスカートというものを、いつの間にか革新から保守に変身してしまった決して珍しくない例の一つとしてとり上げさせてもらったのである。

わたしが思うに、何が革新的で何が保守的かということは、ミニスカートのように時間の経過と共に移ろっていくものなのである。
したがって、ミニスカートが常に革新的であるためには、膝上20センチから25センチ、そして30センチ、35センチとどんどん上がっていき、終には股上何センチということにならなければならない。
革新には決して永住の地はないのである。いつかは必ず保守の聖域へと変わってしまうのだから。