ひとさしゆびとクンデラ

2012/05/11 22:51


ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の中にとても気になる箇所を見つけた。それがタイトルの指に関することなのである。
それは、第?部 理解されなかったことば 4 の中に次のような文章で出てくる。

サビナは同国人の協会を訪問するよう説得させられた。ロシア人に対して武器を手にして戦うべきだったかどうかが、また論じられていた。もちろんのこと、安全な亡命先であるここでは、全員が戦うべきだったと言い張った。サビナはいった。「でしたらもどって、戦ったら」
 それはいうべきではなかった。ウェーブのかかった白髪まじりの男は彼女に向かって長い人差し指を向けていった。「そういうふうにいうべきではないね。誰もがあそこでおこったことには責任があるのだから。あたなにも。あなたは国内にいたとき共産主義体制反対のために何をしましたかね? 絵を描いていた、それだけでしょう・・・・・・」
 共産主義の国では、市民の評定とチェックが、主なるそして止むことなくたえず続けられる社会活動である。画家が展覧会を開けるかどうか、市民が夏休みに海に行くためビザが得られるかどうか、サッカーの選手がナショナル・チームのメンバーになれるかどうかは、まずその人間についてのあらゆる評価や情報が集められ(住居の管理人、同僚、警察、[共産]党機関、組合)、そして、これらの評定がそのあと専門役人により集計され、考慮され、綜合的判断が下される。評定が語ることは、しかし、その市民の絵を描く才能や、サッカーをする能力、夏休みに海での療養を必要とする健康状態とは無関係なのである。関係があるのはただただ「市民の政治的プロフィル」と呼ばれているもの(すなわち、その市民が何をいい、何を考え、どのような態度をとり、会合やメーデーのパレードにどのように参加するか)である。あらゆること(日常の生活、仕事ぶり、休暇)が、その市民がどう評価されるかに依存しているので、誰でも(もしナショナル・チームでサッカーをしたいか、展覧会を開きたいか、あるいは、休暇を海で過ごしたいなら)好ましい評価が下されるようにしなければならない。
 白髪まじりの男が話しているのをきいたとき、そのことをサビナは考えていた。彼は同国人がサッカーが上手か、あるいは、絵が上手かを問題にしないで(そこにいたチェコ人の誰もがサビナが何を描くのかに関心を持たなかった)、共産主義体制に反対したのは、積極的にか、それともただ消極的にか、心からかそれとも見かけだけか、最初からかそれとも今になってかを問題にした。
 サビナは画家であったので、人間の顔の特徴によく気がつき、プラハで他人をチェックし評価することに情熱をもやしていた人たちの人相にはおなじみであった。そういう連中は誰でも人差し指が中指よりいささか長くなっており、それでもって、話の相手を指さした。そういえば、一九六八年まで十四年間チェコを支配したノボトニー大統領も、まさにこのような、理髪師にウェーブをかけてもらった髪をしており、中欧にいる人の中で一番長い人差し指を持っていた。
 彼女の絵を一度も見たことのないこのボス面をした亡命者は、画家の口から共産主義の大統領ノボトニーに似ているといわれたとき、赤紫色になり、真っ青になり、もう一度赤紫色になり、もう一度真っ青になって、何もいわずに、黙りこんでしまった。みなもその男と一緒に、サビナが腰をあげ、出ていくまで、黙ったままであった。

長い引用になったが、文中の斜体の部分にご注目いただきたい。
サビナは、自分は安全地帯にいながらロシアの侵攻に対して武器を持って戦うべきだったという卑怯者たちに痛烈な皮肉を浴びせたわけだが、当然のごとくそれはみなの反感を買うことになる。
さて作者は、卑怯者の代表としてノボトニー大統領似の男を登場させ、人の観察に優れたサビナの目を通して、この男の人差し指が中指よりもいささか長いという身体的特徴を読者に提示してみせる。そしてこのことにより、ノボトニー大統領ともどもこの男を虚仮にするというわけなのだが、わたしはここで!と思ったのである。

果たしてこの時代に人の指の長さが科学的にどういう意味を持つか分かっていたのだろうか。いやおそらく、分かってはいなかったであろう。としたら、ミラン・クンデラという作家は、人の身体的特徴から人物を判断するという直観力を持っていたということになる。

いや、これは買い被りかもしれない。昔から男の手にセクシーさを感じるという女性は多いからだ。
セクシーな手とは、何もごつごつしたいかつい手とは限らない。ピアニストのような細くて繊細な手にセックスアピールを感じるという女性も少なくはない。しかし、ピアニストの手にしろ、肉体労働者の日焼けしたごつい手にしろ、女性がその手に男のセクシーさを感じるとしたら、必ずその手は、薬指の長さが人差し指よりも相当に長いはずである。
なぜなら、薬指の長さは、胎児であったときに浴びた男性ホルモンの量に比例すると考えられており、またこのような指の男性は男性的傾向が強いことが証明されているからである。
したがって、文中の人差し指(薬指ではなく)が中指よりも相当に長い男というのは、男性的でない男として登場させられている、ということになる。

ツバメのメスが裾の長い燕尾服を着たオスに魅力を感じるように、ヒトのメスもオスの長い薬指に魅力を感じるようにできている。作家は、このことを直感力により知っていたのだろうか?

いずれにしても、ミラン・クンデラ氏が人差し指の長い男に好感を持っていないということは確かであり、幸いわたしは、人差し指が長すぎるという理由で彼に嫌われることはなさそうである。