2011/01/09 22:20
新潮の巻頭を飾る(と言っても良いであろう)管見妄語に次のようなことが書かれていた。
イギリスの数学者である友人が藤原氏宅を訪ね「日本は中国漁船がぶつかって来たと言っているようだけど、今もビデオを公開しないのは日本側に都合の悪いことがあるからなんじゃない」
このエッセイの題は「宣伝下手」である。藤原氏は、この話をさらに展開させて、日本が戦争に突入せざるを得なくなった状況について述べている。
「昭和6年の満州事変以前、日本はいくつもの事件をあいまいに処理した。昭和2年に南京で、国民革命軍が日米英などの居留民を襲い虐殺を行った。米英は艦砲射撃で反撃したが、日本軍だけは日支友好を唱える幣原外相の方針により日本人居留民を見捨て静観した。見くびられた日本は翌3年にも済南で、多数の在留邦人が暴行、虐殺され女性は死体にまで陵辱を加えられた。ここでもほとんど抗議をしなかった。5年には、ポーツマス条約で認められた日本の南満州鉄道経営を破綻させるため中国は、日中合意により禁止されていた並行線の建設を始めた。日本人の土地利用の鉱山経営をも禁止した。翌6年には旅行中の中村大尉を虐殺し、万宝山では二百人ほどの朝鮮人農民(当時は日本人)を虐殺した。日本は抗議らしい抗議を行わなかった。鉄道に対する運行妨害、列車強盗、駅や電線の略奪などは数百件に達していた。ありとあらゆる国際法違反を国際社会に訴えることもしなかった。穏便にすませるばかりの政府と恩をことごとく仇で返す中国に対し、国民の不満は爆発寸前だった。事変勃発二ヶ月前の調査では、満州での武力行使を東大生の88%が支持していたという。このような空気を見て関東軍は満州事変へと突っ走った。このような状況下での軍事行動は当時の国際常識では当然と言っても良いものだったが、中国側の宣伝しか知らされていない世界は日本を一方的に非難した。日本は翌々年、国際連盟を脱退し世界の孤児となった。
世界一宣伝下手な日本は世界一宣伝上手の中国に翻弄され続けている。昭和12年の南京戦から約一年間に国民党の国際宣伝処は三百回近い記者会見を外国人記者に対し行った。この熱意には驚くが、もっと驚くのは、その中で一度も触れられなかった南京大虐殺を、八年後の東京裁判で華々しくデビューさせたことだ。八年の粘り強い努力で大虐殺に気づいたのだろう。最近になっても、国内の不満をかわす目的もあり、南京関係の本や映画を作り続け世界にばらまいている。尖閣では世界に向かい日本の謝罪と弁償を激しく言い立てた。日本は我慢を重ねるだけだ。そして時折、満州事変、国連脱退、真珠湾攻撃などと爆発する。両極端しかない国となり果てている。「徳を行っていればいつか世界は分かってくれる」は誤りだ。世界のほとんどを占める徳なき人々に徳は通じない。我が国の立場を世界に国際語の英語で発信する必要がある。大規模な国際広報局の創設が急がれる。