北と南

2012/03/04 19:10


北と南と言っても、朝鮮半島情勢の話ではない。いやしかし、この話は朝鮮半島ともまったく無縁ではないかも知れない。

西郷の貌を読みながら思ったのは、日本の国体が完成したと言われる明治維新、そして幕末について、余りにも知らないこと、いや隠されたことが多すぎるということである。

著者は、この明治という時代の胡散臭さにサーチライトの光を浴びせようとしている。しかし、その光さえもまた怪しく胡散臭い輝きを帯びているように思えてくる。

この話のヒキは一枚もないはずの西郷の写真である。前にも書いたように、上野の西郷さんの像は実物とは似ても似つかぬ、いわばフェークである。しかもその像の作者はといえば高村光雲ときている。

では、なぜ明治政府は、このような贋作にも等しい像を光雲に作らせたのか。
残念ながら、上の疑問を提示しておきながら、この本の中にはその明確な答えはない。

ただ著者は、明治維新というのは、実は南朝革命であったと説いている。

その南朝というのは、南北朝時代南朝である。南北朝時代というのは、1336年から1392年、なんと明治維新の500年以上も昔のことである。南(吉野)と北(京都)に二つの王朝、すなわち二人の天皇が存在し雌雄を争った異常な時代であるが、結局は南朝北朝に伏した。

しかし、北朝南朝に敗れたとはいうものの、決して亡びたわけではなく、連綿とその血を絶やさずに繋いできた。南朝を陰で支えていた者達が多く存在したからである。

水戸学の祖ともいうべき水戸黄門こと徳川光圀は、大日本史を膨大な金と時間をかけて編纂したが、これは南朝皇国史観に基づくものである。その水戸光圀は、湊川の大楠公の墓石に「嗚呼忠臣楠子之墓」と文字を刻んでいる。今、その場所は湊川神社であるが、なんとそれを建立したのは明治天皇であった。

なぜ、北朝の系譜であるはずの明治天皇が朝敵ともいうべき楠正成を顕彰するのか?

それは、実は明治天皇そのひとに世に知られてはならない秘密があったから、ということなのである。
明治天皇については、実は孝明天皇の継嗣睦仁親王ではなく、南朝後醍醐天皇の血を引くという長州藩大室寅之祐という男であるという説が消えない。
倒幕派は、幕府寄りで開国を嫌う孝明天皇ともどもその継嗣であった睦仁親王まで暗殺してしまったというのである。

西郷は南朝を崇拝していた。南朝を祖にもつ菊池家の家臣だったからである。
西郷だけではない、明治維新を推進させた十傑と呼ばれる男達もみな南朝寄りだったのだ。

著者の説では、明治維新というのは、結局は500年も昔の南朝の亡霊によって突き動かされたもののふたちによる革命であった、ということなのである。