1と10

2012/03/05 22:01


面白い小説、あるいは面白い映画でも良い・・・、というのは、結局は情報が豊富な作品のことである。
情報の質、量ともに優れたものが面白い――おそらく、わたしのこの指摘に大きな間違いはないであろう。
情報の質とは、第一に新鮮であること、そして深みがあること。

そういう意味では、何も小説や映画に限らない、サイエンスでも数学でも面白いものは面白いであろう。

ところで、小説家なども若くて泉のようにこんこんとアイデアが湧き出てくるうちは良いが、だんだんとその泉が枯れてくるようになると、長年培った筆力にものをいわせて何とか作家生命の維持を図るものらしい。
いわば、1しかないものを10にしてしまうのが、この筆力というものなのだろう。
一方、若くてアイデアは溢れるほどにあるのだが、いかんせん、筆力がまったくついてこない、という者もいるだろう。
果たして、どちらの書いたものを読みたいか? もちろん、わたしなら売れない若者のへたくそな小説を読む。ただし、その小説が世に出たらなばの話だ。

1のものを10に膨らませて面白おかしく色を着けて話を拵えるのは、わたしに言わせれば詐欺行為である。
10の内容のある話を簡潔に、しかも面白く話して聞かせることが出来るなら、それは間違いなく天才の技であろう。

話は380度変わるが、以前にわたしは、なぜガリレイピサの斜塔から物を落下させるという実験をしなければ、落下の速度は重量とは無関係である、というごく当たり前のことに人は気が付かなかったのだろう、という疑問を呈したことがある。ゴルフボールをご飯粒で50個くっつけて落としても1個だけで落としても、その落下速度に違いがないことは容易に想像できるのに、である。

世には、わたしなどよりも10倍も100倍も頭の良い天才と呼ばれる人たちがごまんといる。にもかかわらず、誰一人、ガリレイより先に落体の法則に気が付く者はいなかった。
あるいは、ニュートンが林檎が落ちるのを見て、はっと気が付くまでは、誰一人、重力の法則に気が付かなかった。

いや、上は自己撞着的表現かも知れない。なぜなら、ガリレイニュートンもそのことに気が付いたからである。彼等はただ、その最初の人物だったというに過ぎず、何事にも最初は必ずあるものだからだ。

ただ、わたしがここで言いたいのは、人間というものは、いくら優れた頭脳の持ち主であっても、意外なほどに簡単なことに気が付かないものである、ということである。もっともこれは、後出しジャンケンである。それは承知の上である。
1を聞いて10を知る、などと言うが、言うは易く行なうは難しということなのだろう。

2本の糸に錘をぶら下げて1mほど離す。この2本の糸は平行であるか? もちろん、答えはNoである。なぜなら、糸は2本とも地球の中心に向かって引っ張られているからである。

何が言いたいのか? アインシュタイン一般相対性理論を唱える以前から、2本の糸は決して平行ではなかった。しかし、この「平行でない」ということから、思考実験を積み重ねさえすれば、必ずや重力によって空間は歪められるという事実に行き当たったはずである。

やはり、1を知って10まで気が付くというのは至難のわざ、ということなのであろう。