選択日和

2012/05/08 14:53


今日がとても良い天気で洗濯物を干すのに良い、というわけでこれを書こうと思ったわけではない(ちなみに英語で Lovely weather for ducks というと生憎の大雨、という意味だそうです)。

最近、また必然性と偶然性ということを考える機会に恵まれた。わたしの思想(というほど大したものではないが)は確固として変わらず、この世に起こる現象はすべて必然であり、最初から最後まで決定されたものである、という必然論であり大きな意味での静止宇宙論である。

さて、なぜ選択をタイトルに用いたか? 人生は選択の繰り返しだからである。人は、少しでもわが有利な方へと選択を行う。これは人に限らず、およそ生命というものに与えられた使命である。

さて、今日はどのシャツを着ることにするか。これも選択である。昼飯に何を食うか。これも選択である。さて、この文章はMSゴシック体にした方がよいだろうか、それとも明朝体にすべきか。これも選択である。
東大と京大、どちらも受かりそうだがどちらにしようか。これも選択である。A社とB社、どちらからも好条件のオファーが来たが、果たしてどちらにすべきか。これももちろん選択である。C嬢とD嬢、どちらも気立てが良くて美人だしいずれ劣らぬサラブレッドである。さてどちらが自分の伴侶として相応しいだろう。これも選択である。

人生は選択である。このわたしの言に異論を唱える人は決して多くはないはずだ。
しかし、である。人生は選択の繰り返しであるとしても、その一番最初の選択はどうか。つまり、オギャーと泣いて生まれるかどうかの選択はいったい誰がいつ行ったのだろうか。という疑問が当然のごとく生じはしないだろうか。

芥川龍之介は、スウィフトのガリバー旅行記の影響を受けてこれを書いたと言われているが、「河童」の中で、河童の世界ではこの世に生まれるか、それとも生まれずに消滅するかの選択を河童の胎児自身が行える、としている。このときの芥川がどのような心理状態にあったか知る由もないが、わたしなどは「そんなあほな」と思ったものである。

いずれにしろ、人はその人生の初めにおいて生まれるか生まれないかという選択権を持たずに生まれてくるのである。わたしもそうだったし、あなたも間違いなくそうであった。
そうすると、人生の一番最初がそんなふうであるのに、それから以降は「いきなり」様々な選択権を与えられて、自らの自発的な意志に従って好きなものを得ようとすることができるということになる。これは、なんだかとても妙である。

わたしもあなたも、どのような家庭に生まれるか、どのような両親の元に育てられるか、一切選択権のないままに生まれてきた。
いや、もっと極端なことを言えば、わたしもあなたも「この宇宙」以外に生まれるという選択権を持たぬままに生まれてきたのである。

なぜ「あの宇宙」ではなく「この宇宙」でなければならなかったのか?
このように考え始めると、いまわたしたちが選択権だとか自由意志などと言っているものも、結局は必然の少し前の状態を指しているだけなのだということに気が付いてくるはずである。