馬鹿と阿呆についての考察

2014/11/14 13:59

OK牧場、ではなくOKギフトショップで有名な、いや、それよりもっと前から有名であった大橋巨泉という人物が、わたしは大嫌いである。
だから、馬鹿の大橋、間抜けの巨泉、と機会があるごとに言ってきた。
もちろん、あれだけテレビで稼ぎまくり音楽でも成功し、果てはオーストラリアやカナダに土産物店を展開しているほどの男が馬鹿や間抜けであるはずがない。おそらくその正反対の人物なのであろう。

しかし、わたしは週刊誌のコラムにいろいろ書いているのを斜めに読んでみて、これは、政治家もやったらしいが、ずいぶんと薄っぺらな考えの人間であるなぁ、という感想をそのたびに持ってしまうのである。

本人は早大出身らしいが、OKではなくて、早くKOされてしまえよ、などと週刊誌を読みながら、独り口走ってしまったりするのである。

まぁ、上は枕であって、本題とはあまり関係はない。さて、本題の馬鹿と阿呆についてであるが、この両者の違いははっきりしない。
カップラーメンの味が東西で違うように、あるいは餅の形が菱と丸と違うように、東では馬鹿、西では阿呆と言うだけのことかも知れない。つまり、異音同義語(こんな熟語がほんとにあるのか)というやつである。

わたしの中では、馬鹿と阿呆はまるっきり違う。しかし、どちらも嫌いではない。
馬鹿とは、たとえば幡隋院長兵衛のような、あるいは瘋癲の寅さんのような男をいう。要は、頭の良し悪しではなく、男気の故に常に損をしてしまうような者のこと、ということになる。
一方、阿呆は、これはもう単純に頭が悪い者のこととなる。

ただ、頭が悪いということは、これはさしたる欠点とは思わない。わたし自身が同類だからである。頭が悪くて損をするのは、大抵自分自身に限られていて、そのために他者に迷惑をかけるというのは一度や二度はあるかも知れないが、そのうちに「彼奴はアホだから・・・」と自然に知れ渡って、重要な仕事とかは任せてもらえなくなるから、死ぬまで他人に迷惑をかけるということはないはずである。これは、わたし自身の経験からも疑いはない。

さて、ここでいちゃもん的な批判を披歴するなら、鶴田浩二さんの「傷だらけの人生」である。いや、これはなにも鶴田浩二さんが悪いわけではない。わたしは、この歌詞はずいぶんと上から目線じゃないかと思うのである。
♪右を向いても左を見ても・・・馬鹿と阿呆の絡み合い・・・とは、自分だけ利口ぶっているようで、わたしには、まったくもって、おもしろくないのである。
それに、である。上に示したわたしの理論からも、馬鹿と阿呆は絶対に絡み合いはしないだろう、と思うのである。

馬鹿と阿呆は全く質が違うので、水と油のごとく交じり合いもしなければ絡み合いもしない、はずである。寅さんでいえば、佐藤蛾次郎演じる源公と寅さんが喧嘩をやらかす場面があるが、あんな程度のものであって、源公は一方的に寅さんの好いようにやられるだけである。

さて、わたしが思うにたいてい男というのは馬鹿か阿呆のどちらかである。後は、もしもどちらかを選択できるなら、どちらを選ぶか、というだけであろう。
わたしは、できるなら馬鹿でありたいが、生まれつきの阿呆がそれを許してくれそうにない。それが大変に残念である。