2013/02/18 08:59
ハッシー(呼び捨て御免)への伝言
テレを隠すには、架空のひとへの伝言を装うしかない、ような気がする。それとも、いっそ小説にしてしまった方が良いかもしれない。
最近、小、中、高と同じだった女性を夢に見ては切ない思いをしていた。
齢をとったせいか、その、わたしのことをずっと想ってくれていた美しいひとのことがいまごろになって恋しくてしかたがないのだ。
もう何十年も会っていないのに、たまに朝方の夢に現れては、なぜあのとき、わたしに好意を示してくれなかったの、とわたしを責めるのだ。
正直ではなかった。自分自身に嘘をついていた。自業自得とはいえ、何十年も経ってから苦しむことになろうとは。
だから、ハッシーには、おそらく混乱を与えてしまうことになるだけだろうけれども、自分の気持ちを素直に表わすしかない。あなたとネットの近くでヘアピンをしていると、胸が苦しくなってしまうのです。もちろん、わたしは狭心症ではない。わたしは心が狭いのではなく小さい小心症の男なのだ。
このブログでもさんざん吹聴しているとおり、わたしは荒野のオオカミになりたくて、自分の中のサルと格闘している最中である。いやらしいサルにだけはなりたくはない。誇り高いオオカミでありたいと。
だからあからさまには自分の気持ちを伝えようとは思わない。それに、生臭いものが大嫌いな性格ゆえ、ただ精神的にずっとあなたを想っている方がわたしには似合っている。
わたしの好きな、いや最近マイフェビリットとなったMark Lowlandsの著書、「哲学者とオオカミ」の中にあった言葉を引用するなら、人生の最高の瞬間、ハイライトは、全ての望みを断たれ、夢も萎み、目的も達成されなかったというような、あなたが絶望の縁でもがき苦しんでいるときにこそ黄金の光のように現れる、この言葉を頼りに、あなたのことを想っていたい。
そして同じくローランズの言葉を借りるなら、わたしたち人間というのはオオカミとは違って時間を線で捉える習性があって、人生の意味や価値についていろいろ考えてはみるけれども、わたしたちの最終的な結論はみな等しく死であり、その線の先にはわたしたちが考えているような意味や価値など存在しえない、ということになる。
むしろ、人生に本当の価値を求めようとするなら、それはその瞬間、瞬間に存在する、ということになる。
これには、わたしにも思い当たることがある。それは、わたしたちのやるゲームの一つ一つについてだ。
「ゲームに勝つこと」は、ゲームというものの性質上、それが目的であり価値であるというのは間違いではない。けれども、本当に強い相手との死闘のような攻防の中で――敵の矢のようなスマッシュを逆に相手コーナー一杯に切り返したとき、あるいは相手のドロップショットを冷静に読んで素早いフットワークでネット際に迫りスマッシュで、あるいはプッシュで相手のコートに押し込んだとき、こういった一瞬、一瞬の、いわば過程の方にこそ、わたしは価値を見出したい。つまり、真に良い試合ができれば、勝敗などどうでも良いことなのだ。
肝心のことを書くのが遅れてしまった。たまにはハッシーとお茶を飲み、ごくごくたまには酒も酌んでみたい。
そして、I just want make a hit with you, いつかミックスを組んでみたい、などと不埒なことを思っているのです。
ハッシー。ああ、こんな名前では呼びたくはないな。他に何かわたしだけのいい呼びようはないものか。