オオカミとして生きる

2013/06/20 15:38


かなり昔のことだが、ヴェルナー・フロイントの「オオカミと生きる」というのを読んだ。

フロイントというのはドイツの元軍人で、自らを二本足のオオカミと称する男である。

彼は、アルファではなく超位オオカミという立場からオオカミと生活し、オオカミの観察を続ける。その生活を記録したのが本書というわけである。

わたしはこれまでオオカミになりたいと公言してきたが、フロイントのようになりたいと思ってきたわけではないし、このようなことは実際には実行不可能である。

話は飛躍するようだが、先日通勤電車の中で次のようなことを経験して、つくづくそう思ったのである。

例によって、扉付近に立って本を読んでいたのだが、静かな車内にふと会話が聞こえ始めた。はじめそれは、会話と思えるほど穏やかなふうに聞こえたのだが、そのうちになんだか雲行きがあやしくなってきた。聞いているほうも心静かとはいかなくなってきたのである。ただ、言い争っているとまでは言えないような会話のやりとりがしばらく続いていた。

ところが、である。電車が停車駅で停まり、わたしの側の扉が開いた。何人かの乗客とともに細長い杖を持った60歳くらいの小太りの男ともう一人、高校生と思しき黒いズボンに白いシャツの背中に大きな赤いバッグを背負った細身の男が連れ添うように電車を降りたのだが、その降りる直前に高校生風が「降りろよ」と大きな声で叫んだのがわたしの耳に飛び込んだのである。

わたしは、二人の後をじっと目で追った。

電車の戸口で二人は少しもみあった後、杖を持った男は何事もなかったかのようにそのままプラットホームを階段の方に歩いていく。高校生風は逃がしてなるものかとその男を追いかけるのだが、途中で中年の婦人に両腕を抑えられるようにして堰き止められる。その眼鏡をかけた婦人は、杖を持った男の方をちらっと見ながら高校生風になにか諭すように話しかけたのだが、高校生風は聞く耳持たぬという感じで男を追いかけた。杖の方は、ここで一気に階段の方へ猛ダッシュをかけた。

以上である。電車がすぐに動き出したので、この後のことはさっぱりわからない。

しかし、わたしはいろいろと疑問に思ったのである。まず、あの杖は何だったのだろう。あれだけ猛スピードで走ることのできる男になぜ杖など必要なのだろうか、と。

それに、である。何が原因かは知らないが、いいか高校生風よ。おまえはまったく中途半端なくだらない奴だ。なぜ電車の中で相手を叩きのめさなかったのか。相手は所詮杖を持った男である。どこか身体にハンディを負っているに違いない。相手はそんな弱い男なのだ。なぜ、殴る蹴るなどしてぐうの音も出ぬほどに叩きのめしてやらなかった。野生の世界では弱いものは強いものに従うのが掟だ。杖の男はおまえに服従しなかった。だから、おまえはその男をぶん殴ってやればよかったのだ。なのに、おまえはなぜそうしなかった。

それとも、いっそ人間界のルールにしたがって、とりわけまだこの日本という美しい国に残る美しい長幼の功にしたがい、杖の男のいうことを素直に聞いてやれば良かったのだ。

いいか、それがオオカミの世界と人間界のルールの違いというものなのだ。

おまえは、情けないことにオオカミにも節度と礼儀をわきまえた人間にもなれない中途半端な生き物でしかないということなのだ。

冗長になってしまったが、翻って考えてみると、所詮わたしもこの高校生風となんら変わらない中途半端な男でしかない。

通勤電車の中で感じたことを書いてみた。