殺人について

2013/07/07 15:29


桜里さん、横井さん、みなさん、こんにちは。今日は大変暑くて、今までつけなかったエアコンをとうとうつけてしまったくらいですが、天の河の両岸の二人にはとってもよい日のようです。

天の下の少しばかり野暮な問題についてですが、自殺や殺人というのは推理小説に欠かせない素材というだけあって、ここでも多くの関心を集めているように思われます。

桜里さんの仰るとおり、殺人は社会との関係性があってはじめてその可否、善悪が問われるものであると思います。自殺にしても、ある人がまったく世間に知られることなく死んでいったとしたら、それは問題にさえなりえないわけです。

医療における安楽死の問題にしてもそこには単純な医者あるいは医療機関と患者という2者に留まらない関係があるから問題として姿が浮かび上がってくると思うわけです。

どのような社会であろうと殺人を是として受け入れる社会はない。わたしが思うに、殺人を是とするような社会は存在することすら不可能だからです。生き物には自ずと同類を殺すことを憚る何らかの機構が働いている、だからこそ生きてこれたのだ、こう思うのです。

ところで、新潮45の7月号に内田樹氏のシリーズ「悪」を考えるというのがありまして、今回のタイトルは「戦争よりもひどいもの」というものでした。これが大変刺激的で、このトピにぴったりの感があったので、少しご紹介させていただこうと思います。

・・・善悪二元論内部における「悪」は本態的な「悪」ではない。
 というのは、その場合の「悪」は「善」の対抗価値だからです。まず善があって、それから悪がある。善悪二元論では、そういう順番になります。神さまがまず「善きこと」を定める。なすべきこと、なしてはならぬことについて戒律を人間に与える。それを聞きつけた悪魔が人間のそばにやってきて、「なすべきこと」を「そんなこと、やらなくてもいいよ」と唆し、「なしてはならぬ」を「やっちゃえば」と煽る。そういう構図です。
 悪魔は「堕天使」ですから、原理的に善に遅れている。つまり、悪魔には自主性がない。「善」の網羅的なリストを手にもって、つねに自分の行動をチェックしていないと、うっかりすると、善行をアシストしたり、悪行の実現を妨げたりしかねない。それでは悪魔は勤まりません。・・・

とまぁ、このようなことが書き出してあって、ディアボロスというアル・パチーノキアヌ・リーブスが共演した映画のことが上の例として引き合いに出されていたり、あるいは「ペイバック」という、これまたわたしの好きなメル・ギブソン主演の映画が出てきたり、さらには小津安二郎の「秋刀魚の味」の一こまが紹介されたり、と名文の上に非常に面白い文章なのです。

結論的には、氏がここで述べたかったことは、そのタイトルが示すとおり大東亜戦争で日本が行った「悪」についてなのですが、氏のあの戦争についての見解はともかく、わたしが一番惹きつけられたのは、善悪二元論についての氏の洞察でした。
たしかに「善悪二元論内部」における悪とは善の対抗価値であり、まず善があって、それから悪がある、という順番であろう、とわたしも思います。

ただ、わたしが全面的に氏に与しえないのは、「『善悪二元論内部』ではたしかにそういうことになるのかも知れないが、現実の生物界においては、まず相手に食われるという最大の悪が前提にある。
したがって、順番としてはまず悪があって、その泥沼のような悪の世界から、蓮のごとく、母親の、あるいは父親の愛情を受け、ようやくわたしたちは命をつないできたわけである。その愛情に代表される生き物にとっての最大、最高の善である生存、繁栄のための、太陽の光のようなもの、それをわたしたちは善と呼ぶのだ」というふうに考えるからなのです。