Ubuntu

2015/05/06 09:14

TED-Talksというのをときどき視聴している。ほとんどが英語によるスピーチで英語の勉強にもなるからだが、聞くたびに感心するのは話者のスピーキングテクニックの素晴らしさである。

翻ってみるに、日本人の表現力の乏しさは、残念ながら今や世界中の誰もが認めるところである。この原因は、単純化して言えば日本人の国民性によるものである。もっと単刀直入に言うなら、「出しゃばるな」を美徳としてきた長き伝統の副作用によるものである。

物事にはすべて両面があるから、必ずしも雄弁が訥弁よりも優れている、というものでもない。雄弁が銀で沈黙が金の場合もあり得る。あるいは、往々にして目が口ほどに物を言う場面が映画やドラマには出てくる。
それに日本人は、決して出しゃばらないが他者に対する思いやりにかけては人後に落ちない。そしておそらくこれは神道的な精神から来ていて、タイトルにしたUbuntuとごく近いものである、とわたしは思うのである。

さて、昨夜わたしはBoyd Varty氏のトークを視聴していた。表題は、
What I learned from Nelson Mandela である。

ボイド氏は南アフリカ出身で家族はその地で4代にわたりサファリビジネスを営んでいた。その彼が9歳の時、ネルソン・マンデラ大統領が彼の家にしばらく滞在したのだという。マンデラ氏はちょうど27年にもわたる投獄から解放されて世間の注目を浴びていた時期で、ボイド氏曰く、疲弊しきった彼の心身を癒すには、それはとても良いアイデアであった。なぜなら、ライオンたちがパパラッチから彼を守ってくれたからである。

わたしは、ネルソン・マンデラ氏の大部の本を一冊持っているほどこの人物に関心があるので、ボイド氏の話を食い入るように聞いていた。

最初に述べたようにボイド氏の職業はサファリである。これは観光客(おそらくセレブや世に名だたるリッチマンたちであろうと思われる)をジープなどに乗せ自然のままのライオンのプライドや象やキリンなどを見せて回ったり、あるいは夜、満点の星の下、キャンプファイヤーを囲みアフリカの人々や動物たちについての様々な話を聞かせたりしてみせる、そのような職業である。

その彼が、ある日あまりの暑さに堪りかね、ズボンの裾をたくし上げ、川の上流にある木が川面に葉を茂らせた枝を垂れさせていて薄暗くなっている、そこまで歩いていったとき、ふいにクロコダイルに右足を喰いつかれた。ワニはものすごい力で足をねじ切らんばかりに振り回す。幸い、彼が子供のころから英雄と尊敬するソリーがわが身も顧みず、腰までの水に浸かりながら駆けつけて助けてくれた。

ここでボイド氏が発した言葉がUbuntuである。これは英語で言うと、I am, because of you となるらしい。つまり、自分は他者(人に限らない。他の動物、植物、生態系といった広義の意味である)との関係性によって生かされているという感覚であり、この辺が、わたしには日本人の伝統的な感覚と共鳴するような気がするのである。

ボイド氏は、ソリーがまるで息をするほど自然に自らの危険を顧みず、ワニのいる川に飛び込んで彼を抱え上げ救ってくれたことが、まさにUbuntuであると言っているのである。

Ubuntuをめぐる彼の話は、次にエルビスと名付けられたメスの子象に及ぶ。彼は、生まれつき後足が変形していて、そのために歩く姿がまるでエルビスが腰を振っているように見えることからそう名付けられたその象を仲間たちが愛情深く助ける姿を語る。水飲み場から斜面を上がれなくなった彼女を他のメスの象が押し上げてやったり、あるいは木の枝を折って彼女に与えてやったり、彼女のために移動速度をゆっくりにしたり。

つまり、Ubuntuとは人間だけのための言葉ではない、ということだ。
おそらく、100年、200年前の人たちであれば、ごく当たり前の感覚であったであろうこのような共生感が、現代社会のわたしたちからは失われてしまおうとしている、ということがよく分かった。
とてもよい話であった。