哲学につける薬

2016/04/11 19:04

以前から思っていたことだが、哲学というのは病気である。したがって、哲学者というのはみな病人ということになる。

ただ、哲学を職業にしている者は、一概に病人とは言えないかもしれない。なぜなら、それは生活をするための単に手段なのかも知れず、現に哲学者を騙って大金を稼いでいる者もいる。

一番愚かしいのは、哲学者を気取る者である。哲学は病気なのだから、何も好んで病人を気取ることもあるまいに、とわたしなら思う。小説家や詩人を気取るなら、あるいは女(馬鹿を接頭辞としてつけねばならないが)を引っ掛ける手段としては、強ち悪い手とは言えまい。

哲学は、人生なくしては語れない。その人生とは、他ならぬ自分自身の生のことである。たとえ人生一般について論じる場合であろうと、自分自身のこれまでの生がベースになっていないはずはない。
ところが、その肝心の自分自身の人生を病である哲学に費やすことにいったい何の価値があるというのだろう。自分がノイローゼであることに一生悩みながら生きるようなものではないか。

だから、世の中の幸せで利口な人たちというのは大抵、表面では、哲学や哲学者に対して尊敬の念を示しながら、腹の底では大いに嘲笑しているのである。
いったい彼らは哲学者だから不幸なのだろうか、それとも不幸だから哲学者なのだろうか、などと。あるいは、この不幸を馬鹿に置き換えてもそう大きな間違いではないように思われる。丹波篠山のデカンショ節ではないが、デカルトであろうとカントであろうとショーペンハウエルであろうとである。ハイデッガーであろうとベルグソンであろうとウィトゲンシュタインであろうとである。

あなたは太った豚と痩せたソクラテスとではどちらが好きですか?

わたしはどちらも嫌いである。わたしなら、引き締まった体形のCEOとか呼ばれる金が唸るほどある人種になりたい。
一度しかない人生。何も小難しい問題を自ら捻りだして、悪戦苦闘する必要などあるだろうか。それは、自分の尻尾を追いかけまわす犬とどう違うのだろうか。

では、哲学に、いや哲学者という病人につける薬はあるだろうか。治療法というのはあるのだろうか。
恋の病と馬鹿と哲学者には正直つける薬はない。
しかし、昔、三島由紀夫が太宰の抱えているような問題は、朝早く起きてラジオ体操でもすれば直に治ってしまうと言ったと聞いた。わたしには、これが一番効き目がありそうな気がする。

さっそく実行してみよう。