昭和の大碩学と毒婦

2010/08/27 21:35


安岡正篤氏の「論語の活学」というのを読みなおしている。もう十年以上前に一度読んだはずなのだが、少しも味落ちがしていないばかりか、かえって面白さが増している。
考えてみれば、孔子と云う類稀な人間通と昭和の傑物との時代を越えたコラボであるわけだから、面白くないはずがない。

肩透かしを喰らわせるわけではないが、本の内容についてはいずれまた書かせてもらうことにして、安岡正篤という人物を少し紹介したい。
この人はまさに昭和を動かし、平成を誕生させたと言っても過言ではない。
「万世の為に太平を開かむと欲す」との終戦詔勅を起草し、「平成」の年号を創案した人物とされるからである。

安岡氏は思想家であった、とわたしは思う。しかし、ただの思想家ではなかった。なぜなら、この人の思想に感化された多くの人々が日本を動かしてきたからである。226事件の背景にも氏の思想があったとの考えも根強い。また、吉田茂はじめ多くの政治家がこの人の薫陶を受けている。この点においても、わたしは、氏は吉田松陰と並び称されるべき人物と考える。

だが、今回わたしが書きたかったのは氏の偉大な傑物ぶりなどではない。表題の通り、この人物の最晩年にかかわったある毒婦についてこそ書きたかったのである。
ご存知の方も多数おられることと思うが、安岡氏は85歳で亡くなるほんのわずか前に再婚をしたとされている。
その再婚の相手とは、今や日本中探しても知らない者はないと思われるほどに有名なあの細木数子女史である。その婚姻届は、晩年安岡氏が認知症を患っていたとの親族からの申し立てにより取り消されたが、このとき、細木はなんとまだ45歳であった。しかも、どのようにしてあのような人物を籠絡できたのかとの問いへの返答が奮っている。
「酒よ、酒で殺したのよ。泥鰌と一緒よ。家では飲ませてもらえなかったみたい」

安岡氏ほどの大人物であっても、このような毒婦と酒にかかってはひとたまりもないことの証拠のような話である。
わたしも気をつけなければいけない。くわばらくわばら。