運命について


2010/09/03 23:13


わたしは運命論者である。いったいいつからそうなったかもはっきりと認識している。いつから、なぜ、そうなったかは自分の心の中ではっきりとしているのだが、それは安易に人に語るような話ではないので、ここでは書かない。

ところで、わたしの考える運命論とは、人間に限らずすべてのものには宿命がある、ということである。宿命というと、非常に暗く恐ろしいもののように聞こえるかも知れないが、銀の匙を銜えて生まれるのもまた宿命であり、長寿を得てたくさんの孫や曾孫たちに囲まれながら人生を終えるのもまた宿命である。

つまり、わたしの考える宿命とは、例えば西郷隆盛という人物がどのように生き、そしてどのように死んだか、わたしたち後世の人間にはそれこそ手に取るように良く分かっている。いわば西郷隆盛の宿命とは、一つの完全なる結晶体であり、絶対に変質させることのできないものである、とそのように捉えたものである。そして同様に、わたしたちの未来も結晶していると考えるのである。

わたしたちは今を生きており、未来、すなわち未だ来たらぬ先のことなど分かるわけがないと思っている。しかし、上に述べたように、西郷隆盛の生涯については手に取るように分かっている。
問題は、今という時点Tから無数の可能性が広がっているようにわたしたちは未来というものを捉えているが、実はそれは間違いであるとわたしは考えるのである。

例えば誰かとじゃんけんをする場合を考えてみよう。
ワタシがグーを出し、相手がパーを出した。ワタシの負けである。しかし、チョキを出す可能性というか、選択肢もあった。それは間違いではない。グーを出した場合とチョキを出した場合とでワタシの人生に大きな違いが出てくる可能性は殆どないであろうが、少なくとも選択肢は三つあった。ところが、グーを出したその瞬間に他の選択肢は消えてしまったのである。
これが例えばロト6(わたしは一度もやったことがない)であったとしても同じことである。ワタシは6つの数字を次のように選んだ。
1,2,3,5,7,11。そう、すべて素数である。ところが、3,5,7,
11,13,17と選んでいれば3億円当たっていたのだ。非常に悔しい思いをワタシはするかも知れない。3億円当たっていれば、間違いなくワタシの人生は違ったものになったであろうにと。確かにワタシには1と2の替わりに13と17を選択する可能性はあった。しかし、結果は結果である。ワタシは3億円を当てる運命を持って生まれてはいなかったのである。

たしかゲーテだと思ったが、道を歩いていて、靴の底で蟻を踏み潰してしまうかどうかで、遠い将来に世の中の姿がまったく変わってしまうだろうかと自問自答するというのがあった。
わたしは、これこそが運命論の最も根本にある命題だと思うのである。なぜなら、蟻を踏み潰すか否かは、ワタシの「意思」にかかっているように見えながら、実はその「意思」自体が風が吹いたり雷が鳴ったりするのと何ら変わらない自然現象の一つだからである。いや、風が吹くのも雷が鳴るのも、あるいは考えようによっては天の意思であるかも知れない。

いずれにしろ、蟻が踏み潰されるか否かは、確かにある時点までは二つに一つの確率的なものであったが、踏み潰された、あるいは踏み潰されなかった時点で、その結果は100%確立する。いわば、その結果は揺るぎのないものとして結晶する。いや、実は最初から結晶していたのだが、わたしたちにはそれが見えてはいなかったのである。

このように運命論を述べていくと、どうしても詭弁のように聞こえてしまうかも知れない。しかし、過去に戻って未来を変えるということが出来ない(これは紛れもない事実である)以上、やはり未来というものは、きらきらと輝くクリスタルのように結晶しており、ただわたしたちにはその姿が見えないだけなのだと考える以外にはないのではないだろうか。