臭いの研究

2010/04/06 09:34

話というものは、意外な展開を見せるもので、昨日は犬、猫の話がいつの間にか香水の話に変ってしまった。

もっとも、臭いという字は、本来自という字の下に犬という字を置いたから犬の話から臭いの話になるのは意外とは言えないかも知れない。ついでに言うなら、嗅ぐという字は、口偏に臭いではなく、犬の字がちゃんと犬のまま入っている。

香水にはインドールスカトールなどの糞便に含まれる成分が使われているという。これらは芳香性のガスである。あんな鼻摘まみものの中に香水に使われる成分があるなんて、これこそ意外である。

しかし、この意外な事実から次のような教訓を得ることができないだろうか。つまり、尾籠な話で恐縮だが、わたしたち人間は糞便、平たく言えば雲古を余りバカにしすぎていたのではないかということである。

いや、もう少し真面目な言い方をすれば、人間という動物は、自分の排泄物についていつごろからかは知らないが、犬や猫などのようにフラットな見方をしなくなってしまったということなのである。

糞便を何か汚いというイメージで見る。これはもうすっかり人類全体に定着してしまっている。衣服を着けないで街中を歩いていれば変態と思われても仕方がないのと同様に、自分の雲古の臭いを嗅いだりする癖があれば、間違いなく変態扱いされる。
(ここまで書いてきてふと思ったが、いくら真面目腐ってこのような文書を書いても、・・・その結論が如何に素晴らしいものであったとしても、題材自体に品性がないと非常に惨めな気分になるということである。・・・しかし我慢して続けるとしよう)

しかし、本当にフラットな目で見れば、自分の腹の中にあったものが汚い筈がない。小便にしても汗とどれほどの違いがあると言うのか。美しい涙などと言うが、悔し涙も紅涙もその成分は汗やおしっこと大した違いはないはずだ。

では、臭いはどうだろう。これも自分の臭いであれば、臭くて嫌だと思う者は少ないのではないか。因みにわたしは自分の脇の臭いが好きである。微かなネクタリンのような香がすると自分では思っている。足の裏の臭いも今嗅いでみたが、ほとんど何も匂わない。ただ、少し柔軟体操をやる必要がありそうだと気付かされただけである。

誰しも自分の臭いにはなかなか気がつくものではない。世のおじさん連中が自分の華麗なる臭いに気が付かないで、周りから顰蹙をかっているのも無理からぬことなのである。ましてや悪臭芬々たるホームレスのおじさんが自分の臭いに閉口しているなんて見たことも聞いたこともない。
これは、喩えて言えば、黄色いレンズを通して黄色いものを見ているようなものだからである。自己というフィルターを通してしまえば、臭いにしても自分の体臭は綺麗に消えてしまう。

話はちょっと変るが、わたしは、初めてテープレコーダーを通して自分の声を聞いたとき、「こんなおかしな声は絶対に自分のものではない。このテープレコーダは壊れているのだ」と思った。しかし、同じテープレコーダーに録音した友達の声は、ちっとも変ではなかったから、やはりテープレコーダーから聞こえる声が本当の自分の声だと考えざるを得なかった。わたしは、この衝撃的な体験を通じ幼くして一つの人生訓を学んだ。すなわち、自分のイメージしている自分自身と他人の目に映っている自分とはまったく違っているということである。

自分の体臭に自分では気が付かないということと、自分が醸し出している雰囲気というものが自分では分からないのは同じ原理によるものである。
先に挙げた悪臭芬々たるホームレスのおじさんは文字通り世間の鼻摘まみ者である。同じように、悪臭というのではないが、TPOを考えず職場で香水の臭いを撒き散らすオフィス・レディというのも困りものである。両者に共通するのは、周りの空気をすっかり妙なものに変えてしまっているのに当の本人がまったく気が付いていないという点である。
しかし、これは以下に述べることとはまったく次元の違うことである。

空気は、英語ではatmosphereとも言う。たとえば、1atmとは1気圧のことである。性能特性などにat 1atmと書かれていれば、1気圧の下でこれこれの性能を発揮しますよという意味になる。
また、これは雰囲気という意味にもなるから、日本語でも英語でも人間がそこはかとなく発散しているものを空気として捉えている点は注目すべきと思われる。

さて、臭いと空気とはまったく異種のものであるが、臭いが空気中に漂うものである限り、両者を切り離すことはできない。すなわち、臭いによって空気は変ってしまうのである。
そして、わたしが重要だと思うことは、現代人は犬以上に「臭い」に敏感になってきているということである。
臭いに敏感になるあまり、餃子を食べることを躊躇し、体臭を気にする余りデオドラントスプレーを手放さない。近頃では、体臭を抑える飲み薬さえ一般に売られている。
このようなケミカルとしての臭いに加え、自分の個性としての臭いさえ消してしまおうという風潮があるように見受けられる。

これは、私見ながら学校という教育の場においても顕著に伺える事象ではないか。
学童、学徒に個性があるのは当たり前のことである。勉強のできる者できない者。足の速い者遅い者。背が高い者低い者。いて当然である。
競争もある。嫉妬も生まれる。そこからいじめも発生する。勉強のできる者は、ときに頭の良さを隠す必要さえ生じる。スポーツのできる者は喧嘩も強いから、案外いじめの対象にはならないかも知れない。

ところが、今の学校教育は、競争は差別を生むという理由からか、極端なところではかけっこの順位さえ付けない。かけっこでさえ順位をつけないのであるから学業は言わずもがなである。自然、教育は出来ないもののペースに合わされる。できる者は、塾に行ってもっとレベルの高い勉強をすることになる。これが常態化してしまっている。
今の義務教育というのは、日本人の画一化、クローン化の大量生産工場になってしまっているようにさえ思える。

一方、時代は個性豊かな才能を求めている。産業界でも芸術の世界でも破天荒な常識を覆すような人物の出現を待っている。
然るに、人材を生み出すべき教育のあり方がこのようでは、とても閉塞感漂う日本の将来に風穴を開ける人物が誕生することは期待できない。

いかなる悪臭の中にあっても、それにどっぷりと長時間浸かっていれば、もはや臭覚が麻痺してしまい、それが悪臭とは感じられなくなる。それが、今の日教組であり、日教組教育により醸し出されてしまった日本社会の閉塞感ではないだろうか。